きしめん発祥説は間違いだらけ?名古屋めしの歴史に大胆新説
きしめんの発祥に諸説あり、の諸説はすべて間違い(!?)
「きしめんが名古屋城築城の際にふるまわれた、との俗説は100%間違いです!」
こんな大胆な新説を唱えるのは名古屋の歴史ライター・水野誠志朗さん。きしめんは名古屋めしの中でも最も歴史がある食べ物のひとつで、発祥に関する通説もすっかり定着しています。しかし、これを真っ向から否定するのが水野さんの「新説・きしめんの歴史」。一体、きしめんはいつ、どのようにして生まれたのでしょうか?
まずは、きしめんの発祥といわれている諸説を紹介します。
〇「名古屋城築城のふるまい説」・・・1610年の名古屋城築城の際、職人たちにふるまわれたのがきしめんの始まり。大勢に手早く提供できるよう、ゆで時間を短縮するために麺を薄くした
〇「雉麺 説」・・・尾張の殿様が雉(きじ)狩りで得た雉の肉を麺に入れて食べたのが始まり。「雉麺」(きじめん)が「きしめん」に転訛した
〇「紀州麺 説」・・・紀州の殿様がお土産に持ってきたものを尾張の殿様が紀州麺と呼び、「きしゅうめん」が転訛し「きしめん」となった
〇「棊子麺 説」・・・碁石のような丸く平たい棊子麺(きしめん)という食べ物があり、これが細長い麺に変化してきしめんになった
これらの説はきしめんに関する解説文にはもれなく紹介されているほどポピュラーなもの。筆者も、あくまで諸説あり、としながら何度も引用したことがあります。
しかし、水野さんによると、きしめんの歴史をひもとくと、これらの説はどれも信ぴょう性に乏しいとのこと。上記の4つの説のうち、文献で確認できるのは「棊子麺」のみ。室町時代初期や安土桃山時代の書物に「棊子麺(きしめん)」という文字が見つかります。しかし、これはきな粉をかけて食べる点心のような一品料理、酒のつまみのようなもので、現在のきしめんとはまったく別物だったそうです。
江戸時代、名古屋名物はきしめんではなくうどんだった!
また麺料理のつゆに欠かせない醤油が量産されるようになったのは安土桃山時代(1580年頃)。麺が汁に入った現在のようなうどんは1600年代初期に開発され、一般化したのは江戸後期の元禄時代のこと。「したがってうどんと同様の食べ物であるきしめんが生まれたのも1600年代後半以降と考えられ、名古屋城築城時(1610年)にふるまわれたとの俗説はほぼ否定できる」といいます。
そして、江戸時代の名古屋の名物はきしめんではなくうどんだった、とも。「1700年代後半~1800年代初めの文献に『尾張(名古屋)では饂飩(うどん)と酒が天下一』、『名古屋の天王祭には家々がうどんをつくるのが恒例で、この地のうどんは甚だよろしい』と書かれています。1800年代には『きしめん』を出す店の記録が見つかりますが、残念ながら場所は三重県伊勢市や愛知県犬山市です」(水野さん)。
愛知県刈谷市のいも川うどんがきしめんのルーツ(?)
“名古屋のきしめん”が史料に登場するのは江戸時代後期の1867年。当時の風俗史家の書物に「江戸でヒモカワという平打うどんを尾張名古屋ではきしめんという」との記述があります。ヒモカワというのは、現・愛知県刈谷市の芋川で生まれたいも川うどんを指し、この地では1600年代後半に既に名物だったと記録されています。
江戸時代後半には名古屋名物になっていたと思われるきしめんですが、はっきりと書物に登場するのは明治時代になってから。明治21(1888)年の『愛知県下商工便覧』に「一八うどん・きしめん」が名産品として掲載され、明治35(1902)年には泉鏡花が『名古屋見物』できしめんを「是は他に類が無かろう」と称賛しています。
ここまでの流れを整理して、水野さんはきしめんの誕生、普及を次のように推理します。
「麺料理としてのきしめんが文献に登場するのは1800年代初め。そこから少しさかのぼり、1700年代後半から平打ちのうどんをきしめんと呼ぶようになったと推察されます。ここからはあくまで想像ですが、名古屋のうどん屋が差別化を図るため隣の三河で名物になっている芋川うどんに目をつけ、信長の時代にあったらしい棊子麺の名前を拝借したのでは? こうして1700年代終わり頃に、名古屋にきしめんが登場し、またたく間にブームになったのではないでしょうか」
讃岐うどんより時間も技術も要する名古屋のきしめん
この「新説・きしめんの歴史」は、去る4月10日に開催された中日文化センター講座「きしめんの真実」で披露されたもの。講座では合わせて、現役麺職人によるきしめんの手打ちの実演も行われました。
ここでも一番の趣旨は「真実のきしめん」を知ってもらうこと。「きしめんはうどんを平たく延ばしただけ」「きしめんは新幹線のホームが一番うみゃ~」・・・。こんな誤解を解くことが目的でした。
「名古屋には名古屋手打と呼ばれる独特の麺打ちの技法があります」と大正時代創業の「角丸」(名古屋市東区)3代目の日比野宏紀さん。
うどんの本場・讃岐と比較すると違いが際立ちます。讃岐うどんは朝、麺を打ってその日のうちに売り切るのが基本。対して、名古屋では讃岐の2倍近くも塩分濃度の高い塩水で生地をこね、ひと晩熟成させて、それでも固くて延ばしにくい生地をあえて薄く延ばしてきしめんをつくります。生地を均等に延ばすために“まるけ”“へそ出し”という独特の行程があったり、薄く延ばす時に力が伝わりやすいよう非常に細い麺棒を使ったりと、時間も手間も技術も要する打ち方をしているのです。このような独特の打ち方が生まれたのは、高温多湿の気候に対応するため、麺そのものにうまみを持たせるため、薄くしてもコシのある麺にするため、といった理由が考えられます。
もうひとつ誤解されがちなのがダシ。「“カツオの風味がきいている”なんて表現をよく見かけますがこれも大間違いです」と水野さん。これを受けて「名古屋のうどん屋はムロアジが基本。これに宗田ガツオを何割かブレンドする店がほとんどです」と日比野さん。
名古屋ではきしめんやうどんのつゆはたまりがベースで、味噌煮込みうどんはさらに豆味噌を加えます。香りが上品なカツオではたまりと豆味噌のクセのある風味に負けてしまうため、パンチのあるムロアジを使うといいます。
きしめんは、この力強くも柔らかみのあるつゆが、幅広い麺にしっかりと乗ります。しかも、麺は薄いのにピンと張った弾力があり、幅が広い分舌にふれる面積も広く、ぺろぺろっとした滑らかな食感を楽しめるのがきしめんの醍醐味。単にうどんを薄くしただけでは決してない、独自の魅力があるのです。
機械化・冷凍化による飲食ビジネスとしての生き残り戦略
実演の2回目は、手打ちの妙技を披露した初回とは打って変わって製麺機を使ったきしめんづくりの紹介。会場は2021年5月のオープン以来、きしめんシーンに新風を巻き起こしている「星が丘製麺所」(名古屋市千種区)です。
「名古屋が誇る食文化である“おいしいきしめん”がどんどんニッチになってしまっている。きしめんをあらためて普及させるために機械化・冷凍化という方法が不可欠だったんです」とオーナーの衣笠太門さん。同店は、機械打ちで冷凍でもおいしいきしめんの魅力を広く知ってもらうためのいわばアンテナショップ。この麺を仕入れて独立開業するきしめんスタンドなど、気軽にきしめんを食べられるシーンを名古屋中に広げることが最大の狙いです。
同店では個人店が導入できるスケールの製麺機などを駆使して、きしめんを製造。粉の水回しはミキサー、足踏みの替わりはプレス機と各作業で機械を使いますが、生地を休ませる時間や、コシを生みつつ切れにくくする圧力の加減など、麺打ち職人としての知識があってこそ機械を使いこなせるのだといいます。
「おしゃれな空間で若い女性など幅広い世代がきしめんをおいしそうに食べている。これはきしめんの歴史の中でも画期的なこと。この先きしめんが生き残っていく可能性を示してくれた」と水野さんは同店の取り組みを高く評価します。
正しく知ることが食文化を守る第一歩に
「きしめんは歴史も独自のおいしさもある名古屋が誇る食文化。にもかかわらず正しく理解されていないのはもったいない」と水野さんはいいます。「食べる人が価値を分かってくれないと、技術を継承する職人もどんどん減ってしまいます。きしめんは今や絶滅危惧種。守り、残していくためにも、歴史やおいしさをちゃんと伝えていく必要があるんです」
水野さんの「新説・きしめんの歴史」は推測の部分もあり、あくまで仮説というべきもの。しかし、これまでまことしやかに語られてきた通説の不確かな部分を丁寧に検証したものであることは確かです。そして歴史をできるだけ正しくひもとこうとする姿勢は、対象への興味も深めてくれます。
打ち方にも味わいにも、他にはない価値と魅力があるきしめん。歴史を糸口に関心を高めるのも、きしめんをよりおいしく味わうことにつながるのではないでしょうか。皆さんも是非名古屋で、“きしめんの真実”のおいしさを味わってみてください。
(写真撮影/筆者 ※『邦訳 日葡辞書』の画像は水野さん提供)