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どうか全馬無事に!! 日経新春杯の度に思い出されるテンポイントの悲劇

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
78年の日経新春杯。1番後ろがテンポイント(写真;読売新聞/アフロ)

奇跡の出自から時代を作る

 今週末は日経新春杯(G2)が行われる。

 私の世代の競馬ファンならこのレース名を聞くと1978年のそれを思い出す人が多いのではないだろうか。海外遠征を前に、国内最後の壮行レースとしてここを選んだテンポイントが故障を発症した一戦だ。安楽死やむなしの大怪我だったが、陣営は大手術を断行。“流星の貴公子”と呼ばれたこの馬は一命を取り留めたかに思えた約1ケ月半後、看病の甲斐なく天に召された。当時、私は中学生だったがすでに競馬に興味を持っていた事に加え、社会的なニュースとして取り上げられた事態だったので、よく覚えている。

 流星の貴公子の主戦は鹿戸明騎手。後に調教師となった彼に話を伺った事があったので、今回は当時、聞いた話を軸に、半世紀近く昔のエピソードを記していこう。

 話は更に1948年まで遡る。文献によるとこの年、生を受けたクモワカは後に馬伝染性貧血と診断され、殺処分命令をくだされた。しかし、その診断を訝った関係者が隔離馬房に入れている間に症状が回復。その後、殺処分は取り消されたとの事だ。

 そんな背景を持つクモワカから生まれたのがワカクモ。そしてそのワカクモから生まれたのがテンポイントだった。

 75年のデビューから76年のクラシック直前まで5連勝したテンポイントだが、皐月賞で生涯のライバルとなるトウショウボーイの2着に敗れると、菊花賞ではトウショウボーイにこそ先着したものの、新たなる宿敵グリーングラスの前に2着と惜敗。続く有馬記念では再びトウショウボーイの2着に敗れた。

 しかし、翌年、天皇賞(春)を制すと、年の暮れには有馬記念でトウショウボーイとグリーングラスを撃破。TTGと呼ばれ3強時代を形成したテンポイント、トウショウボーイ、グリーングラスが揃ってレースに出走したのはこの時が3度目で、全てのレースで上位3着までを独占したが、過去の2回の勝ち馬はグリーングラスとトウショウボーイ。テンポイントは初めて3強対決に勝利。鹿戸は後に次のように語った。

 「トウショウボーイはこれが引退の1戦でした。翌年は海外遠征を考えていたテンポイントが胸を張って日本を発つためにも、この時ばかりは負けられないという気持ちが強かったです」

 この気持ちが結果、有馬記念史に、いや、日本の競馬史に残る名勝負を生む。2頭はスタートから他の馬などお構いなしという競馬ぶり。最後まで両頭で出たり入ったりのハナ争いをしたまま走り切る。他馬勢ではグリーングラスが3着まで追い上げるのが精一杯。鹿戸は述懐した。

 「ボーイが最後に差し返して来た時は驚きました。勝てて嬉しいというよりホッとしたのを覚えています」

壮行レースで星となる

 そのテンポイントのラストランとなったのがこの次走、78年の日経新春杯だ。海外遠征前の壮行レースとして、ここに出走してきたのである。

 小雪パラつく中で行われたレース、道中は66・5キロのハンデを背負いながらも格の違いを見せるか?!と感じさせる走りを披露した。しかし、4コーナー手前で物語は暗転する。これも以前、鹿戸に聞いた言葉を記しておこう。

 「何の前触れもありませんでした。好手応えで『勝てる!!』と思った次の瞬間、後ろから引っ張られるような感触がしました」

 それが怪我をした瞬間の事だった。左後肢を開放骨折。陣営は何とか命をつなごうと大手術を断行したが、約1ケ月半後の3月5日、流星の貴公子は本当に星になってしまったのだ。

 今週末、そんな歴史を持つ日経新春杯が行われる。どうか事故や怪我なく、全馬が無事に走り終えてくれる事を願おう。

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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