20年前の歴史的一戦 〜もう一つの戦場を制した意志〜
2001年9月15日に開催される予定だった統一ミドル級タイトルマッチは、4日前に発生した同時多発テロで9月29日に延期された。
9/11と聞くと、必ずあの日を思い出す。私は、当時暮らしていたネバダ州リノの空港にいた。その日から3日間MLBの現場に出た後、NYに入るスケジュールだった。「全米中の空港を閉鎖するので、荷物を受け取って帰宅してください」飛行機の座席にいたにもかかわらず、そんなアナウンスを聞いた。
自宅に戻り、ワールド・トレードセンター崩れる映像をニュースで目にし、愕然とする。
テロの爪痕が色濃く残るNYで、当初の開催日から2週間後に決行されたフェリックス・トリニダードvs.バーナード・ホプキンス戦。
思いがけない結果となった20年前のファイトを完全再録で振り返る。
~初出:『Number』(文藝春秋)534号~
最終ラウンド58秒、WBC/IBFチャンピオン、バーナード・ホプキンスの右フックがフェリックス・トリニダードの顎を打ち抜き、WBA王者は腰からキャンバスに崩れ落ちた。
次の瞬間、セコンドを務めるトリニダード・シニアがリングに飛び込み、試合は終了した。
トリニダード・ファン一色のマジソン・スクエア・ガーデンが静まり返る。続いてホプキンス・ファンの狂喜の叫びが、一角からコーラスとなって沸き上がった。
「オレは、バーナードの勝利を信じていたぜ。この3カ月余り、本当にハードなトレーニングを積んでいたからね。アイツがあんな決意でボクシングに取り組んだのは、プロになって初めてと言っていいんじゃないか」
熱戦から3日後、フィラデルフィアから受話器を通して聞こえる声は弾んでいた。語っていたのは、元世界ヘビー級チャンピオンのティム・ウィザスプーン(84、86年)。トリニダードを下して統一ミドル級王者となった、ホプキンスの同郷の友である。
「オレがヘビー級のタイトルを失った頃だから、86年の終りか87年だったと記憶している。まだアマチュアだったバーナードも、同じジムで練習していたんだ。ヤツ、刑務所を出たばかりでね、ボクシングでモノにならなかったら、もう生きる術がないっていう状態だった。まぁ、ゲットーの住民なんて、皆、似たようなものなんだけどさ」
ホプキンスは17歳の時、殺人未遂とレイプの罪で収監されている。ウィザスプーンと出会った頃は、プロデビューを控え、汗を流す日々だった。
「アマでもそこそこの成績を収めていたから、いい線いくんじゃないかな、とは思っていた。でも、この業界は汚い野郎が多いから、人間関係に気をつけて、上手く渡っていけよってアドバイスしたんだ」
デビューから7年目の95年4月、ホプキンスは3度目の挑戦で、IBFミドル級タイトルを奪取する。以来、13回の防衛に成功。今年の4月にはWBC王者を下して2冠も達成したが、けっして人気のあるチャンピオンではなかった。
「クリンチやホールディングなど、汚い手を使うからね。でも、6年以上も防衛し続けるって簡単なことじゃないぜ。負けない技術を持っている。つまり、実力派ってことだよ」
そのホプキンスが、トリニダード戦では別人のように基本に忠実なボクシングを見せた。終始、ガードを固めてジャブで打ち勝ち、プエルトリコのスター王者を全く寄せつけなかった。
「完璧な闘い方だったよね。やれば、綺麗なボクシングだってできるんだよ。チャンピオンでありながら、ずっと陽が当たらなかったヤツだから、人生を懸けていたんだろうな」
「フィラデルフィアの誇りを懸けて闘う」とアナウンスしていたジムメイトの快挙を、元ヘビー級チャンピオンは「自分にとっても、最高の喜びだ」と結んだ。
それにしても試合はワンサイドだった。3階級制覇を成し遂げ、ボクシング界の至宝と認知されていたトリニダードが、何故こんなに呆気なく敗れてしまったのか? プエルトリコから生まれた3人目の世界王者であるホセ・トーレス(65~66年)にも話を訊いた。
「TITO(トリニダードのニックネーム)は、何一ついいところがなかったね。私の採点では、ポイントを取れたラウンドなんて一つもないよ。タイミングもおかしかったし、動きが単調過ぎた。あんなシングルブローだけでは、勝てっこない。準備の段階で狂いが生じたのが敗因だろうね」
ワールド・トレードセンターを襲ったテロの影響で、9月15日に開催予定だった統一戦は2週間延期された。ホプキンスは車で自宅まで帰ることができたが、トリニダードは地獄絵と化したニューヨークに滞在し、一度切れたモチベーションを再び元に戻さねばならなかった。統一ミドル級タイトルマッチが29日に決行されることが正式に発表されたのが、試合の11日前だったという点も、ファイターにとって酷な話だったに違いない。
「それもマイナスに作用しただろう。でも、もっと大きかったのは例のスキャンダルだよ」
9月上旬、トリニダードに愛人の存在が発覚した。しかも、トリニダードの子供まで身籠っていた。トリニダード陣営は、蜂の巣を突ついたような騒ぎの地元メディアから逃れるために、キャンプ地をプエルトリコから、急遽マイアミに変更しなければならなかった。
「傷心の奥さんは、ノイローゼのようになって離婚を迫ったらしい。大試合を控えていたというのに、気持ちは試合どころじゃなかっただろう。集中してトレーニングができたとも思えない。負けるべくして負けたのさ」
トリニダードは、99年9月にオスカー・デラホーヤとの統一ウェルター級戦を制してから、破竹の勢いでタイトルコレクションを増やし、スーパースターの座をもぎ取った。皮肉にも、その結果、ボクシング以外のことに費やす時間が増えてしまったのかもしれない。
故郷プエルトリコに18台の車を所有し、それらを並べた大きな駐車場とプールのある“御殿”での生活。側近の話では、1日に2回、新品の服に着替える暮らしという。
「有名になるとね、いろんな誘惑とも闘わなきゃいけなくなる。私自身も世界を獲る前は、毎朝12kmのロードワークをこなしていたのに、チャンピオンになった後は、5kmすら走らなくなってしまった。タイトルを失ってみて、自分の弱さに気づくんだよ」
リング上の2人は、身体のサイズがまるで違っていた。ナチュラルなミドル級であるホプキンスは、このクラスに転向して2戦目というトリニダードより、遥かに分厚く、大きな筋肉で覆われていた。それは、パンチ力にも比例しているように映った。だが、両者の決定的な差は、実はメンタルなものではなかったか。
統一戦で闘うチャンピオン同士でありながら、両者のファイトマネーには3倍以上の開きがあった。トリニダードの900万ドルに対し、ホプキンスは250万ドル。プロモーターのドン・キングも、明らかにWBC/IBFの2冠王者をWBAチャンプの斬られ役に仕立て上げていた。
加えて、36歳のホプキンスは、負けてしまえばもう二度と同じ規模のメガ・ファイトが用意されない男だった。彼は、8歳下の英雄に対して執拗な挑発を繰り返した。プエルトリコの国旗を投げ捨て、豆をぶつけた。テロの報復から、アメリカ合衆国が戦争を始めようとする中で、「この試合こそWARだ!」と叫び、関係者の顰蹙(ひんしゅく)を買った。
ホプキンスにとって、この日のリングは、殺すか殺されるかの“戦場”に他ならなかったのだ。敢えて悪役を演じ、自らの立場への怒りを武器に己を奮い立たせていた。そしてトリニダードを踏み台にすることで、自分の存在を世界にアピールしたのである。
「確かにホプキンスも悪い選手じゃない。でも、パウンド・フォー・パウンドに選ばれるような王者じゃないよね。その点TITOは、ボクシング界を背負う器でしょう。きちんと調整すれば、きっとリターンマッチでは勝てるだろう」
トーレスはそう締めくくった。確かに、ホプキンスにトリニダードのような華はない。しかし、この男の見せた執念は、今回のトリニダードにはないものだった。
試合後の記者会見にも、「WAR」という文字の入ったバンダナを巻いて現れたホプキンス。14年ぶりに誕生した統一ミドル級王者は、周囲からどんな視線を投げかけられようと、この一戦を“戦争”と捉えて闘う強さを持っていた。