筒井康隆氏の「慰安婦像ツイート炎上事件」をどう捉えるべきか?
・筒井康隆氏の記述、何が「問題」となったのか?
作家の筒井康隆氏が、自身の運営するブログ「笑犬楼大通り 偽文士日碌」における、4月4日の記述の一部が同氏の公式ツイートに転載され、それがすわ国際問題ともいうべき波紋・炎上の様相を呈している。
問題とされた筒井氏の言及内容は以下の通り。
これに対し、ハフィントンポストは早速韓国からの猛烈な反発を報じ、国内からも鋭敏な反発の声が上がっていることを報じた。
記事中には「国内からの反発の声」として、「筒井康隆といえばブラックで不謹慎な作風で、本人はその延長線上としか考えてないのかもしれないけど、こういうことを言わせちゃうのが今の日本の雰囲気なのでしょうね(@yoox5135)」とか「筒井康隆の芸風は、世の中で「善きもの」とされる全てを、「エロ・グロ・ナンセンス」に落とし込む事…(@LenyIza)」、あるいは「筒井康隆ってもともと差別大好きな人だと思っていたからなあ。別に今、おかしくなったわけじゃない。そして戦後昭和の時代から日本はずっとこの手の差別大好きな人を”タブーを破る過激な人”と称して褒めそやしてきただけだよ(@althusser723)」(同上)などと市井のユーザーの声を紹介しているのである。
これに加えて作家の北原みのり氏のコメント「性的なことを暴力的に表現することが、自由な精神とリベラルであることの証、というお気楽さで、戦後の男表現者って食えたんだよね。今もそうだと勘違いしているのは、お気の毒としか言いようがない。#筒井康隆(@minorikitahara)」なども網羅し、筒井氏の今回のコメントへの全面的なバッシングが国内で沸き起こっていることを示唆しているかのごとき内容である。
確かに、そのお怒りはごもっともと言うべきであろうが、少し冷静になって筒井氏コメントの背景を探っていこうではないか。
・ツツイストからの反論
さて、かくいう筆者は青春時代からツツイスト(筒井康隆氏の熱狂的なファン)を公言してきたものであり、筒井氏の著作はそのデビュー作『お助け』(『にぎやかな未来』角川書店・収録)以降、ほぼすべての作品を通読しているのであるが、今回の同氏のツイートにおける特に国内からの反発をみるにつけ、上記のような嵐の如く(に思える)批判は、慰安婦問題の当事国・韓国からの反発はまずまず政治情勢を鑑みてともかくとしても、国内からのそれは、まったく筒井氏の作風を理解していないお門違いのものであると言わざるを得ないのが正直な所感なのである。
おそらく上記のような「国内からの批判の声」のほとんどは、筒井康隆氏の作風を正確に理解していないもの、あるいは筒井康隆氏の作品自体を読んだことがないのか、あるいは読んでいたとしてもごく最近のもの・或いは有名なものしか読んでいないのであろうという印象を持つ。私を含めた日本国内における多くのツツイストの諸賢は、上記のような筒井氏による「慰安婦像ツイート」は、同氏の作風から考えれば、至極「通常運転」たる「筒井的」な世界観の開陳であると思わざるを得ないし、このような同氏ブログの数行における記述が政治的イデオロギーと結びつけられ、総バッシングされるという現下の状況こそ、反骨・反権威の作家たる筒井康隆が最も忌み嫌う風潮であることぐらいは、十分に承知している筈であろう。
今回、筒井氏の公式ツイッターは、該当部分のみをツイートした個所は削除されているというが、ブログ原本の方は公開されたままである。慰安婦問題の是非や日韓関係は兎も角として、韓国や「国内」から批判される「筒井康隆氏の作風」が、如何に上記の様に誤解され、屈曲されたものであるかを以下少し検証してみたい。
・筒井氏の作風は本当に「差別」と「不謹慎」なのか?
筒井康隆氏の代表作と言えば、実写化(大林宣彦監督)およびアニメ化(細田守監督)もされた『時をかける少女』がまずいの一番に思い浮かばれることであろう。事実上記ハフ紙は、”「時を駆ける少女」の作者の妄言”として韓国で報道されている旨を伝えている。
細田監督の平成版(と私は勝手に呼称している)『時をかける少女』の印象が強い人々は知らないかもしれないが、『時をかける少女』はティーン向けのジュブナイルSFであり、筒井氏の王道的作品ではなく、むしろ補助輪的作品と言えよう。前述したように、筒井氏はそのデビュー作『お助け』が江戸川乱歩に認められるや、痛快な社会風刺の効いたSF短編を数多く書き、本格長編SF『48億の妄想』、『馬の首風雲録』、『霊長類南へ』などを60年代末期から続々と上梓された。
70年代から80年代初頭にかけて筒井作品はいよいよ色彩を増す。代表的なものはいわゆる「七瀬三部作」とされる『家族八景』(1972年=以下西暦は単行本刊行年)、『七瀬ふたたび』(1975年)、『エディプスの恋人』(1981年)。「七瀬三部作」の中で最も有名なのは『七瀬ふたたび』であろう。超能力(読心術)を持つ主人公の火田七瀬とその仲間らが繰り広げるSF活劇であるが、『エディプス~』に至ると活劇を超克した、「神」を問う哲学的SFにまで昇華させた(これは氏の最新長編『モナドの領域』に接続する)。「七瀬シリーズ」はその完成度の高さが故、現在までに何度もドラマ化、実写化された作品であることは言うまでもない。
他方、奇人・変人評論家ばかりが集う梁山泊を描いた『俗物図鑑』(1982年映画化)は大きな話題を呼ぶ。1979年に刊行された『大いなる助走』では、閉鎖的な文学同人界隈を痛撃し、1989年に映画化。他方、推理小説にも進出し、『富豪刑事』(1978年)を発表。この作品は主人公を女性(深田恭子主演)に転換して2005年にテレビドラマ化された。またこのころ『筒井順慶』、『ジャズ大名』(岡本喜八監督により映画化)など歴史小説も手掛け、その意欲的快進撃はとどまるところを知らなかった。
80年代を通じて、筒井氏は『虚人たち』『虚航船団』など、純文学方面にもその版図を広げる。同時に冷戦時代の日ソ戦を描いた架空戦記モノ『歌と饒舌の戦記』、後年さまざまなSF派生作品・ゲームに影響を与えたとされるSF長編『旅のラゴス』(私は勝手に宮崎駿『風の谷のナウシカ』の姉妹作品であると思っている)を上梓し、筒井=ドタバタ・ナンセンス作家という初期の固定化したイメージから完全に脱却したのである。
90年代以降、いわゆる「断筆宣言」(1993年=筒井氏の短編『無人警察』の教科書収録に対して、日本てんかん協会からの抗議と一連の出版社対応に対しての抗議)が世を賑わせたが、それ以降現在に至る筒井氏は、最新長編『モナドの領域』を筆頭として、再びSFから純文学までを横断的に網羅し、それ以外にもエッセイ、テレビコメンテーター、舞台俳優など、マルチな才能で世を賑わせる作家と相成っている。
・時代の「前衛」を行く作家
あるときは『文学部唯野教授』(1992年)で閉鎖的な大学社会を痛打したかと思えば、長編小説『朝のガスパール』(1992年)では当時最先端の双方向情報ツールであったパソコン通信(ASAHIネット)による読者との対話の成果を取り入れた実験的な内容に挑戦。インターネットと文学の融合を志向した最も早い時期の作家と言えるであろう(このパソコン通信での筒井氏と読者のやり取りは、『電脳筒井線』1992年・朝日新聞社から刊行)。
現実と、それに対するネット世界という虚構の交錯する世界を描いた『朝のガスパール』は、現実と夢の世界が交差する『パプリカ』(1993年刊行、2006年に今敏監督によってアニメ化)に繋がっていく。ゼロ年代を経過しても当世時代状況への皮肉も怠りなく、『銀嶺の果て』では高齢化問題、『愛のひだりがわ』では疲弊した近未来の日本を描き、その中で一縷の希望を見出している。筒井康隆氏は常に時代を先取りし、文学的実験の前衛を走り続けていた。そして気がつけば、多くの作品が実写化・アニメ化され、様々な媒体にメディアミックスされた、膨大な量の「筒井文学」の系譜が誕生していたのである。そして、その世界の魅了される人々が「ツツイスト」となり、同氏の分厚い読者層となって現在でも強固に購買を支えているのだ。
このようにごく簡単な筒井康隆氏の来歴を振り返るに、「ブラックで不謹慎な作風」「タブーに挑戦する作家」という往年の筒井評は、氏のごく初期の短編作品に見られた作風傾向であり、必ずしも筒井文学全般を指すのに適当ではない。それどころか、筒井氏は「不謹慎でタブーに挑戦する作風」と言う通俗的評価よりも、むしろ徹底して真の「反権威」「反空気」「前衛」を志向した作家であるといわなければならないのであり、まして「差別礼賛の作風」など、お門違いもよいところであろう。
・「反権威」「反空気」「前衛」の稀代の作家
筒井氏の「反権威」「反空気」「前衛」を象徴的に表す作品として数例をあげる。例えば『アフリカの爆弾』(1967年)。アフリカの「未開」のトライブが、国連軍から核ミサイルを購入し、それを雑に運搬する一連の騒動を描く。ここで登場する核ミサイルは男性器の象徴として描写され、東西冷戦下、核開発競争にしのぎを削る時代状況を痛烈に皮肉っている。
常に筒井氏は世相を相対化し、最大の暴力装置である核ミサイルを男根に矮小化し、それを皮肉ることに終始する。東西冷戦を男根崇拝のマッチョイムズと唾棄して笑っているのである。核兵器をも性の笑いに転嫁する。この徹底した批判精神を単に「エロ・グロ・ナンセンス」と唾棄するのは果たして適当だろうか?(ちなみにこの作品は、筒井氏自らが漫画化している『筒井康隆全漫画』奇想天外社、収録・1976年)。
筒井作品を代表する傑作SF短編『農協 月へ行く』(1973年)では、田中角栄の「列島改造計画」による地価高騰で、突如成金となった地方農民(農協)の通俗性を皮肉り、『ベトナム観光公社』(1979年)では、未来世界でも継続されているベトナム戦争を観光地として巡礼するという、戦争すら笑いと皮肉の対象とする痛烈な風刺となっている。『旗色不鮮明』(1973年)では、架空の都市「大慈県助駒市」に引っ越してきた作家「おれ」が、職能間の銃撃戦に巻き込まれるという政治的ドタバタで、当時の自社共公各党を、それぞれ「痔民党」「斜会党」「公迷党(創禍学会)」「凶産党(垢旗)」などと徹底的に皮肉っている。
フジテレビ系「世にも奇妙な物語」で映像化されたことでも著名な傑作短編『最後の喫煙者』(1987年)は、「嫌煙権」の正義の掛け声に、全体主義の恐怖を重ねている筒井版『1984』である。小松左京氏による『日本沈没』(1973年)が一大社会現象を巻き起こしたかと思えば、それに抗するように『日本以外全部沈没』(同年)を発表、タイトル通り小松の世界観に挑戦状をたたきつける(この作品は2006年に映画化)。このように筒井文学の特徴とは、常に「反権威」「反空気」「前衛」であり、そこにイデオロギーの左右は関係がない。
文芸評論家・中野久夫氏による筒井作品解説。
つまり筒井文学を読解すればするほど、それが単なる「ブラックで不謹慎な作風」「タブーに挑戦する作家」などには当てはめることができず、また通俗的な「エロ・グロ・ナンセンス」に落とし込めるだけの代物でもないことなど、分かり切ったことなのである。今回の筒井氏の「慰安婦像ツイート」を「ネット右翼」や「右傾化」の文脈でとらえる向きもあるが、そのような文脈は事ほど左様に間違いであり、筒井康隆氏の作風を知っていれば、筒井氏ほど「同調圧力」に異を唱えてきた作家は居ないことが理解できるというものである。
筒井氏は慰安婦像を性的表現で揶揄することによって、「慰安婦問題とはかく論じられるべきである」という同調の雰囲気を皮肉ったのであり、それを無知蒙昧なネット右翼や右傾化の文脈に絡めて批判すること自体、筒井文学のもつ批判精神から最も遠いと言わざるを得ない。筒井氏は慰安婦問題の是非を論じたのではなく、「性に関する歴史的問題」すら相対化して笑うのだ、という氏が従前から貫いてきた批判精神や道徳への懐疑を開陳したまでの事であり、それは繰り返すように、筒井氏がその作家時代の前半で盛んに開陳してきた、いわば筒井文学の根底を成すものであり、特段驚くにはあたらないのである。
無論、「慰安婦問題」で被害者の側である韓国世論が「妄言」と批判するのは、歴史的にも政治的にも致し方ないであろう。しかし、「性に関する歴史的問題を茶化してはいけない」という風潮そのものを筒井氏は痛打したのであり、よくネット右翼界隈や、それに理論的恩典を与える自称「保守系言論人」のいう、「従軍慰安婦など無かった」「従軍慰安婦は追軍売春婦であり問題はない」などのトンデモ歴史観を開陳しているわけではない。筒井文学とはあくまで、イデオロギーの左右から遊離した場所に位置し、既存の空気や権威・道徳に対する相対化と笑いの前衛であり、差別や右傾化を目指したものではないことに、くれぐれも留意する必要がある。
・「不謹慎」時代への抵抗
中沢啓二氏の漫画『はだしのゲン』で、主人公中岡ゲンが、戦中翼賛体制に無批判に協力していた市井の人々が、戦後コロリと反戦平和を連呼し、似非平和主義者に転向する様を「欺瞞」と称して糾弾するシーンが何度もある。極めつけは、戦争中は体制側につき、軍国主義を吹聴して中岡一家を「非国民」呼ばわりして、その糾弾の急先鋒にいた町内会会長が、戦後「反戦平和」を唱えて議会選挙に立候補するその会場に殴り込みをかけるシーンである。
「さんざんわしらを非国民といじめやがって。日本が戦争に負けると今度は戦争に反対していた平和の戦士か。都合がええのう」
中岡ゲンのこの糾弾は、筒井文学の通底に流れる「空気」への抵抗、既存の権威への批判精神と同じものに思えてならない。私は、「従軍慰安婦など存在しなかった」などという、ネット右翼界隈の一部世論は歴史的に間違いなので異を唱えているし、彼女たちが軍の管理下にあった以上、「広義の強制性」という批判は、甘受するべきであろうと思う。
一方で、戦後日本は過去の内閣を通じて一定程度、誠実に謝罪と賠償の責を果たしてきたことに対し、韓国側があまりにも過小評価している実態は否めないと感じる。過ちは二度と繰り返さないという、戦後の平和日本の果たしてきた役割を、韓国側はもう少し理解してもよいと思う(しかしながらこの実績は、ことあるごとに日本側の閣僚や文化人によって毀損されてきたことも事実である)。そして当然、韓国側が今回の筒井氏コメントに怒り心頭であるという心情も、応分に理解できよう。
と同時に、「性に関する歴史的事実はいかなる時でも相対化して茶化してはいけない」という風潮にも、危険なものを感じる。「道徳とはかくあるべき」という風潮そのものを、さんざ唾棄し笑い飛ばしてきたのが筒井文学の底流なのだとすれば、今回の「炎上事件」とは、筒井文学の笑いの前衛という文脈すら、許容せぬ社会の不寛容のあらわれではないか。
おそらく筒井文学の流儀に従えば、「教育勅語」や「修身」の要素が入った教科書を一か所に集めてガソリンをかけて燃やしたり、教育勅語を暗唱しながら親殺しをしたり異性との乱痴気性行為に及ぶ、という処が王道なのであろうが、そのような内容のブログやツイートを筒井氏が行ったとすると、今度は途端に「右側」が猛烈に怒り出す塩梅となるのであろう。
「不謹慎」だけが先行し、道徳的至高だけを追い求める穢れ無き社会ほど、息苦しいものはないと思える。そういう道徳を笑い飛ばしてきたのが筒井文学なのに、それすら許容しえぬのならば、ますます想像力の可能性は閉ざされていくのではないか。どうで日本でSFが下火になっているのは気のせいではあるまい。