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【戦国こぼれ話】君は朝倉氏の家臣で、名刀「太郎太刀」で名を馳せた真柄直隆を知っているか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
名刀「太郎太刀(末之青江)」は、熱田神宮に所蔵されている。(提供:barks/イメージマート)

 愛知県名古屋市熱田区の熱田神宮では、真柄直隆が用いた名刀「太郎太刀(末之青江)」が展示されるという。ところで、真柄直隆とは、いかなる人物なのか考えることにしよう。

■真柄直隆とは

 太郎太刀・次郎太刀は、朝倉氏の家臣・真柄直隆・直澄兄弟が用いたことで知られる。真柄氏は越前真柄(福井県越前市)の出身で、現在は故地に真柄直隆の碑文が建立されている。

 直隆が誕生したのは天文5年(1536)のことであるが、父の名は不明である。弟には直澄がおり、子は隆基である。直隆の前半生には不明な点が多い。

 直隆の身長は約210センチメートルで、体重は約250キログラムという巨漢であったという。大変武芸に優れており、黒鹿毛の馬に乗っていた。

 永禄10年(1567)の暮、将軍・足利義昭が朝倉義景の庇護を求めて、一乗谷(福井市)にやって来た。

 直隆は義昭の面前で、2本の大太刀を頭上で十数回も振り回し、大いに驚かせたという。事実ならば、とんでもない怪力である。

 実は、直隆が振り回していた刀は、長さが5尺3寸(約160センチメートル)もあり、越前の刀匠・千代鶴国安が作刀したものといわれている。恐るべき怪力の逸話である。

■「太郎太刀」とは

 「太郎太刀」を作刀したのは、備中国の青江派の刀工である。作刀された時期は、南北朝時代末期から室町時代にかけてである。刀の追銘には、「末之青江」とある。

 『朝倉始末記』によると、太刀の長さは9尺5寸(約288センチメートル)もあったと記されている。これでは、槍と同じくらいの長さなので、常人が刀として使うことは不可能である。

 とはいえ、天正4年(1576)に熱田神宮に所蔵された「太郎太刀」を見ると、その大きさには驚嘆せざるを得ない。

 全体の長さは303センチメートルで、刃長は7尺3寸(約221センチメートル)。重さは、約4.5キログラムもある。

 なお、熱田神宮には弟・直澄所用の「次郎太刀」も伝わっているが、5尺5寸(約166センチメートル)とやや小ぶりである。

 小ぶりとはいっても、通常の刀身が60~90センチメートルなのだから、破格の長さであるのはたしかだ。

■直隆の最期

 元亀元年(1570)6月、織田信長・徳川家康連合軍と浅井長政・朝倉義景連合軍は、姉川(滋賀県長浜市)で雌雄を決した(姉川の戦い)。その際、直隆は朝倉方として、弟・直澄、子の隆基とともに出陣した。

 しかし、直隆は、無念にも徳川方の向坂三兄弟に討たれた。討たれたとき、「我頸を御家の誉れにせよ」と述べたという。

 直隆を斬った刀は、「真柄斬り」と称されている。なお、弟・直澄、子の隆基も姉川の戦いで戦死した。

 熱田神宮の「太郎太刀」には、そのような由緒があるので、ぜひ見ておきたい。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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