コロナ禍でも売り上げを伸ばす「豊岡鞄」。地場企業のコラボで高めたブランド力
全国有数の鞄産地である兵庫県豊岡市。この十数年、地場企業が協力して地域ブランド「豊岡鞄」を育て、知名度を上げてきた。コロナ禍で百貨店などの来店客数が減り、鞄の売れ行きは悪い。それなのに「豊岡鞄」は前年比増の売り上げだ。その秘密を探った。
「あら、『豊岡鞄』や!」
伊丹空港のANA国内線搭乗ゲートに向かう客たちが足を止めて、鞄を手にする姿が目立つ。保安検査場を通過した客向けにオープンした飲食、物販フロアの一角に「豊岡鞄」のショップが誕生した。この8月のことだった。オープン時はコロナ禍の影響で搭乗客は激減し、売り上げは芳しくなかった。
出張前に鞄を購入するビジネスマンも
だが9月以降、客足が少しずつ戻り、鞄を手にする人は増えている。取材をした10月29日の朝には、関西から福岡市へ出張するビジネスマンが3万数千円のビジネスバッグを気に入った。出張前に購入しては荷物が増える。さてどうしたか。翌日に福岡から伊丹空港に戻った際に購入すると約束し、買いたい鞄を取り置きしてもらい、搭乗ゲートに向かったのだ。
ショップを運営しているANA FESTAの太田雅浩マネージャーは「客足が戻りほっとしている。『豊岡鞄』のブランドに引き付けられて来店される客も多い。出張時に取り置きするというニーズがあることにもわかり、びっくりです」と話す。
「豊岡鞄」は伊丹空港がある兵庫県の北部、豊岡市で生産されている鞄の地域ブランド。豊岡は東京都足立区などと並ぶ国内屈指の鞄産地である。「豊岡鞄」のブランドは特許庁が2006年に地域団体商標として認定した兵庫県鞄工業組合の登録商標。独自商品を目指し、デザインや品質が一定基準以上だと認定を受けた地場企業29社がつくる鞄に「豊岡鞄」のブランドがついている。
コロナ禍でもネット販売は3、4割増
兵庫県鞄工業組合副理事長でマスミ鞄嚢社長の植村賢仁さんによると、「豊岡鞄」のインターネット販売は夏以降、前年比3~4割増となり、豊岡市のふるさと納税の返礼品として提供する「豊岡鞄」も前年比で倍増しているという。コロナ禍で通勤、通学は減り、旅行も控える人が多く、鞄の需要は大幅に減っているのに「豊岡鞄」のブランド商品は堅調に伸びている。地域ブランドをつくった2006年以降の豊岡の鞄業者の取り組みがようやく功を奏し始めたと言えるのだ。
豊岡の鞄産業の歴史は長い。1300年ほど前に朝鮮半島から伝わった柳細工の技術を使って、奈良時代には豊岡でつくられた柳製の箱「柳筥」が正倉院に上納された。それが豊岡の鞄づくりの源流とされる。江戸時代に「柳行李(こうり)」の生産が盛んになり、明治時代になると柳行李にベルトや取っ手をつけた「行李鞄」が誕生し、豊岡が鞄の産地として発展するきっかけとなった。
第2次世界大戦後の高度経済成長の時代には、豊岡の鞄業者は国内外の有名ブランドのOEM(相手先ブランド)生産を増やしていった。しかし円高の進行や台湾、中国、韓国などの新興国が発展した1990年代初頭からは鞄業者は減り始める。鞄工業組合の会員はピークだった30年ほど前の約170社から2005年ごろには50社余りにまで減少し、危機感が募った。
危機感が生んだ「豊岡鞄」
ちょうどそのころ豊岡の鞄業者は有名ブランドメーカーのOEM生産から自社ブランドの生産を模索し、生き残りを図ろうとした。その時誕生したのが、2006年に商標認可を受けた地域ブランド「豊岡鞄」だった。
地域ブランド化の取り組みは、最初は苦労した。長らくOEM生産になじんでいた企業体質があったので、「豊岡の名前を前面に出してどんな役に立つのか?有名ブランド品が売れているのだからいいのではないか」という意見も出た。
しかし、地域ブランド化を進めようとした当時の理事長ら改革派の数人は「有名ブランドメーカーは生産地を日本から台湾など新興国にどんどん移してしまうのではないか。ブランドメーカーだけに頼っていては産地の未来はない。産地を世界に知らしめないと次の100年、200年は生きていけない」と危機感を強めていた。特に2代目、3代目の若手経営者らはなおさらだった。ブランド化の推進は当時の若手経営者が中心となって進められていった。
「豊岡鞄」のコンセプトは、豊岡で育まれ、ものづくりの長い歴史と技術が生んだ優れた鞄を消費者に安心して使ってもらう、というもの。ブランドへの信頼を高めるために豊岡独自の製品検査基準をつくり、産地で厳しく審査する体制をつくった。当初は「4分の3が審査に落ちるという状況で、お叱りを受けました。今も3分の1は不合格ですが」とマスミ鞄嚢の植村社長は言う。
業者間でノウハウのコラボ
厳しい審査体制は豊岡の業者間にコラボを生み出した。「この縫製にはこの機械を使えばうまくいく」「この部品の接着には新製品の糊を使えばいいよ」・・・・・。これまで自社で抱え込んでいたノウハウを教え合った。「産地の中で1社だけ生き残っても産地は廃れ、自分の首を絞めてしまうと分かったからです」(植村社長)。
2009年からは阪急、大丸、三越伊勢丹、高島屋の大手百貨店や地方の百貨店で「豊岡鞄」の催事販売を開始し、「豊岡鞄」の認知度アップに力を入れた。2018年9月には東京駅丸の内南口前のJPタワーKITTEの1階に常設店を出店した。その際に豊岡の鞄業者16社が出資して「豊岡K-Site合同会社」を設立し、その代表にマスミ鞄嚢の植村社長が就いた。
一方でものづくりを担う人材が高齢化し、人手不足が深刻だった。ブランド力を維持するには技術を伝承し、技術を高める人材が必要だ。2013年に豊岡市内に縫製者育成トレーニングセンターを開講し、鞄の縫製技術を期間3~4か月で教えるコースを設置、2014年には期間1年で鞄づくりの企画、デザイン、縫製、原価計算などすべてを教えるスクールを開校した。
鞄づくりのプロ目指し豊岡へ
いずれのコースも毎年十数人が学び、国内ばかりか海外からも鞄づくりのために豊岡にやってくる。期間1年のスクールの授業料は年間138万円、住宅費を含めると年間300万円を自己負担する。学ぶ人の大半は転職組で鞄づくりのプロを目指す人たちが集まっている。
2006年の地域ブランド「豊岡鞄」の始まりから十数年が経ち、コロナ禍に見舞われた。東京駅前のKITTE丸の内店もコロナ禍で客足は急減した。出店した2018年に「豊岡鞄」の東京での認知度を調べると5%という数字が出た。「20%ぐらいは知られているのではないかと思っていましたから、当てが外れました」と植村社長は振り返る。だがそこで怯みはしなかった。2年前から関東以北での認知度を上げようと百貨店での催事に拍車をかけた。鞄工業組合の組合員数も今では64社となり、ボトムだった2005年ごろに比べて10社ほど増えた。それが今、コロナ禍で功を奏しているのかもしれない。
悪い時こそチャンス
植村社長は振り返る。
「バブル崩壊の影響と新興国が台頭し、経営が苦しかった1990年代、2008年に起きたリーマン・ショック。いずれの危機でも何も手を打とうとしなかった企業は消えていった、というのが実感です。このコロナ禍でもできることをやります。悪い時こそチャンスです」
「豊岡鞄」の挑戦は、苦境にある地場産業の再生へのヒントになるに違いない。