クロムウェルの首が辿った奇妙な経緯
歴史上の人物の中には、ドラマチックで奇妙な人生を送ったものも多くいます。
しかし中には、寿命を全うしてからもその遺体が奇妙な経緯を辿ったものもいるのです。
今回はクロムウェルの生首が辿った奇妙な経緯について紹介していきます。
1.屋根に23年掲げられていた生首
オリバー・クロムウェルは、イギリスの政治家です。
彼はニューモデル軍を率いてイングランド内戦に勝利し、1649年1月にイングランド王チャールズ1世を処刑しました。
この出来事により、彼は王政と貴族院を廃止し、イングランド共和国の樹立を導いたのです。
その後クロムウェルは1653年より護国卿となり、ほぼ無制限の権力を握り、旧王政の君主に匹敵するほどの権力を行使しました。
その後クロムウェルは激務が祟ったこともあり、1658年に死亡しました。
クロムウェルの遺体は厳重に防腐処置を施され、ウェストミンスター寺院に埋葬されることとなったのです。
しかし1660年にチャールズ2世の下でイングランド王政復古が果たされると、クロムウェルの遺体を取り巻く状況は一変します。
チャールズ2世は父親のチャールズ1世の処刑に関係していた元たちを続々と裁判にかけていき、その多くが処刑されていました。
すでに死んでいたクロムウェルもその例外ではなく、クロムウェルは墓から出されて死後処刑されました。
その後クロムウェルの首は胴体から切り離され、ウェストミンスター寺院の上に掲げられたのです。
クロムウェルの首は1661年から1684年までウェストミンスター・ホールに掲げられていましたが、その後行方不明となりました。
嵐の夜、首が突き立てられた棒が折れ、地面に落ちた首を通りかかった番兵が発見し、自宅の煙突に隠したと言われています。
この首の行方不明はロンドン中で大事件となり、首を返還した者には多額の褒賞金が約束され、多くの人々が捜索を行ったと伝えられているのです。
2.クロムウェルの首の奇妙な変遷
次にクロムウェルの首が記録に登場するのは、1710年のことです。
スイス系フランス人の珍品収集家クローディウス・デュプイがロンドンの私設博物館でクロムウェルの首を展示していたことが記録に残されています。
ドイツ人旅行者フォン・ウッフェンバッハはこの展示物に驚き、デュプイから首が60ギニーの価値があると聞かされ、「この奇怪な首もイングランド人にとってはそれほど価値があるのだ」と驚嘆しました。
その後紆余曲折あって、クロムウェルの首はヒューズ兄弟の手に渡りました。
ヒューズ兄弟はロンドンのボンド・ストリートでクロムウェルにまつわる展示を計画し、多くのポスターを刷って宣伝しましたが、展示品の来歴の疑わしさが評判を損なったのです。
ヒューズ兄弟は展示品が本物であることを証明するために努力しましたが、疑念を完全に払拭することはできませんでした。
結果的に展示は高額な入館料も災いし、商業的に失敗したのです。
19世紀に入ると、首はヒューズ家の娘に引き継がれ、彼女は希望者に対して公開を続けました。
リヴァプールの博物館のウィリアム・ブロックは購入を検討しましたが、公設博物館に人間の遺骸を展示することへの反対意見が強く、購入は実現なかったのです。
最終的に、1815年に首はジョサイア・ヘンリー・ウィルキンソンに売却されました。
1875年には医師ジョージ・ロレストンがクロムウェルの首とされる頭蓋骨を調査し、アシュモレアン博物館の頭蓋骨は偽物であると結論づけましたが、ウィルキンソン家の首については真偽の確証が得られませんでした。
1911年にも同様の調査が行われましたが、首の真偽は依然として不明のままだったのです。
3.300年ぶりに眠りについたクロムウェル
1934年、ウィルキンソン家が所有するクロムウェルの首は、カール・ピアソンと人類学者ジェフリー・モラントによって科学的に調査されました。
二人は109ページにわたる報告書を作成し、頭蓋骨が60歳程度の男性のもので、クロムウェルの顔の特徴とよく一致し、17世紀当時の防腐処理を受けた後に切断されたことを確認したのです。
彼らはこの首が偽造不可能であり、「ほぼ確実に」クロムウェルのものであると結論づけました。
1957年にウィルキンソン家の当主が亡くなり、クロムウェルの首は彼の息子に引き継がれました。
息子は首を一般公開するのではなく、正式に埋葬することを望み、クロムウェルの母校であるケンブリッジ大学に提案したのです。
カレッジもこれを歓迎し、1960年3月25日に首の埋葬が秘密裏に行われました。
首は1815年以来ウィルキンソン家が保存していたオークの木箱に入れられ、気密性の容器に安置されたのです。
埋葬には大学関係者など数人のみが立ち会い、この事実は1962年10月まで公表されませんでした。