「どうする家康」織田信長の時代には、普通に行われていた人身売買について
大河ドラマ「どうする家康」は、お市の方の侍女・阿月が人身売買で売られる場面があった。この時代の人身売買は普通に行われていたので、もう少し詳しく考えてみよう。
我が国における人身売買は、基本的に禁止されていた。しかし、飢饉などで農作物が収穫できなかったりすると、生活に困って妻子を売ることがあった。寛喜2年(1230)の大飢饉において、人身売買が横行したのは、よく知られた事実である。
戦国時代になると、戦場で乱取りが常態化し、人の略奪も行われた。将兵は村の人々を捕らえて連行し、人買い商人に売っていた。それが、将兵にとっての恩賞代わりになったのである。次に、織田信長の時代における人身売買を確認しよう。
天正3年(1575)、織田信長は越前国の一向一揆を鎮圧した。その際、約3~4万の人々が、殺害または生け捕りにされた(『信長公記』)。生け捕りにされた人々は、農民そして女・子供が大半で、彼らには過酷な運命が待ち構えていた。
生け捕りにされた農民や女・子供は、人買い商人を介して売買され、やがて奴隷となる運命にあった。奴隷になった人々は、家事労働あるいは農作業に従事し、まったく自由が認められなかったのである。
天正7年(1579)9月、信長が支配する京都において、女性の人身売買が大きな問題となった(『信長公記』)。その事実は、以下のとおり記されている(現代語訳)。
去る頃、下京場之町(京都市下京区)で門役を務めている者の女房が、数多くの女性を騙して連れ去り、和泉国堺(大阪府堺市)で日頃から売っていた。この度、この話を聞きつけ、村井貞勝が召し捕らえて尋問すると、これまで八十人もの女性を売ったと白状した。
この女性は、門番の妻だったが、裏では女性の売買に関わっていた。女性を騙して売り飛ばし、その数が80人に及んだという。誰かが京都所司代の村井貞勝に密告したので、捕まったのである。京都所司代は、京都市中を取り締まっていった。
人身売買は織田政権下でも禁じられていたので、女性は厳しく罰せられたという。その後、処罰を受けた女性がどうなったのか不明である。