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本能寺の変後、明智光秀は生き延びて関ヶ原合戦に出陣したのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
関ヶ原。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、明智光秀が一揆により殺害された。その後、光秀は生き延びて関ヶ原合戦に出陣したというが、その真偽を検討することにしよう。

 本能寺の変後の天正10年(1582)6月13日、光秀は土民によって討たれた。光秀が死んだことは、当時の複数の確かな史料に書かれているので、紛れもない史実である。しかし、岐阜県山県市には、おもしろい伝承が残っている。

 本能寺の変後、光秀は一揆に討たれておらず、影武者を務めた荒木山城守行信なる人物が身代わりになったという。光秀が一揆に襲撃された際、行信は光秀に再起を図るように促すと、自ら「自分が光秀である」と名乗り、身代わりになって討たれた。

 その後、光秀は山県市の西洞寺へたどり着き、再起を図った。光秀は身代わりになって死んだ行信に感謝し、行信の名字の「荒」を取って、「荒深小五郎」に改名したのである(以下も「光秀」で統一)。

 慶長5年(1600)9月に関ヶ原合戦が勃発すると、光秀は東軍の徳川家康に与するため出陣した。しかし、不幸にも根尾村(岐阜県本巣市)の薮川で洪水に見舞われ、乗っていた馬とともに溺死したというのである。誠にミステリアスな話だ。

 光秀の遺骸は、行信の子・吉兵衛が葬った。白山神社(岐阜県山県市)の「桔梗塚」は、光秀の墓と伝わっている。「桔梗」は、明智家の家紋でもあった。付近には現在も光秀の子孫とされる荒深姓の方がおり、光秀の遺徳を偲んで、年に2回「明智光秀公供養祭」が催されている。

 ほかにも光秀が生き延びて、天海になったという話が有名である。関ヶ原合戦屏風には、天海と思しき僧侶の姿が描かれているが、後世に描かれたので根拠にはならない。この説は大正時代に提唱されたが、裏付けとなる根拠史料がなく、現在では否定されている。

 山県市に伝わる伝承もユニークだが、残念ながら光秀が生き延びて、関ヶ原合戦に出陣する途中で溺死したという説を裏付ける史料はない。しかし、なぜ伝承が残ったのかを考えることは、非常に意義深いものがあると考えられる。今後、各地に残る光秀伝承とあわせて検討されるべきだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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