【深掘り「鎌倉殿の13人」】和田義盛の上総国司の要望を拒否したのは、北条義時ではない
今回の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、和田義盛が上総国司になることを拒否されていた。その原因は何だったのか、詳しく掘り下げてみよう。
■和田義盛の申し出
承元3年(1209)5月、和田義盛は内々に上総国司になりたいと幕府に打診した(『吾妻鏡』)。上総国は親王任国で、実質的なトップは「介」である。あの上総広常も「上総権介」にすぎなかった。
つまり、義盛が言うところの上総国司とは、実質的に「上総介」を望んだということになろう。なお、親王任国は、常陸国、上総国、上野国の3ヵ国である。
義盛の申し出に強い難色を示したのは、北条政子だった。政子は故頼朝の時代の話を持ち出し、侍が受領になることは禁止されてきたので、今回の要望は認められないとしたのである。
ところが、平賀朝雅は伊賀の知行国主だったし、八田知家は筑後守だった。そう考えてみると、政子が過去の例を持ち出して、義盛の申し出を拒否したのは、何か別の理由があったと考えざるを得ない。
■大江広元への懇願
その直後、義盛は過去における自身の勲功などを記した款状(かじょう)を作成し、これを大江広元に提出した。款状とは、訴訟や官位を望む際に提出される嘆願状のことである。
ところが、いつまでたっても義盛の要望はかなえられず、ついに義盛は上総国司を断念し、款状の返付を求めたのである。それは、2年余を過ぎた建暦元年(1211)12月のことだった。
重要なことは、ドラマのように義時が拒否したわけではなかったことだ。義盛の要望は、長期にわたって棚ざらしにされていたようである。
■まとめ
ドラマでは義時が義盛の上総国司の一件に絡んでいたが、『吾妻鏡』には書かれていない。関与したのは政子だった。政子が義盛の申し出を拒否した理由は無理筋だったので、何か別の理由があったのだろう。
当時、義盛は侍所別当であり、さらに上総国司を与えると、威勢を伸長させる恐れがあった。義盛は幕府の古参御家人で、人望もあったという。つまり、政子は義盛の台頭を恐れ、断ったと推測される。