英国の調教師夫人となった日本人女性の家族を襲った不幸。そしてそれを救ってくれた馬との物語
2000年の夏、イギリスで最初に会った時は現地の女子大生だった。その後、ヨーロッパだけでなくドバイやオーストラリアなどほうぼうで再会した。そんな彼女は現在、イギリスでリーディングを争おうかという調教師の夫人である。子宝にも恵まれた彼女を今春、襲った不幸。そして、その直後、傷心の彼女を癒してくれた出来事を今回は紹介しよう。
愛馬キャプテンクックとの思い出
園部花子は1976年5月7日、父・和夫と母・照美の間に埼玉で生まれた。5歳年下の妹・陽子と共に育てられ、幼少時はバレエに興じた。14歳の時、母の趣味である乗馬を始めるとすぐに虜になった。
「球技など出来ない運動音痴だったのに、バレエで鍛えたバランス感覚のせいか馬には乗れました」
それが嬉しく、毎日乗った。高校生の時、大会で優勝するとますます楽しくなった。
そんな娘に両親は1頭の乗用馬を与えてくれた。園部はその馬をキャプテンクックと名付け、何度も一緒に大会に出場した。
そんなキャプテンクックは単なる戦友ではなかった。学校で嫌な事があったり悩んだりするたび、彼の馬房へ行き、前肢にしがみつきながら悩みを打ち明けた。彼女の涙をいつも黙って受け入れてくれるキャプテンクックの事を、園部は大好きだった。
ある大会の日の朝の事だった。キャプテンクックが馬房内でうずくまっていた。園部にはその仕種が可愛く見えた。
「だから写真を撮っていました」
しかし、実は疝痛で苦しんでうずくまっていた事を後に知った。
「ショックでした」
そこでこんなミスを二度と犯さないために獣医になろうと考え、高校卒業と同時に渡英。馬学科のあるウエストオブイングランド大学で学んだ。
かの地で暮らしていた2000年、日本からエアシャカールを始めとした森秀行厩舎の馬達がイギリス遠征。園部はJRAに請われ、彼等の手伝いをした。私が彼女と最初に出会ったのもその時だった。
この縁を元に帰国後、JRAの外郭団体である競馬国際交流協会に入会した。そこで働いていた当時始まったのが『ダーレーフライングスタート』という制度だった。これはドバイのシェイク・モハメドが馬の事を学びたい世界中の若者を支援する制度。これに申し込むと450人の応募者から12人だけが合格という狭き門を突破。03年から2年間、この制度下で欧米、オーストラリア、ドバイと飛び回りつつ馬について学んだ。
そのプログラムが終了後、アメリカの厩舎に就職。1年ほどで帰国した時の事だった。
「キャプテンクックを預けていた乗馬クラブから連絡があり『歩様が乱れていますけど、どうしますか?』と言われました」
そのため余生を送らせてくれる養老牧場をあたった。しかし、当時はどこも施設としては不十分。ただ放牧地に放し飼いにするような所が多く、これでは預けられないと感じた。そこで園部は大仕事に打って出た。
「幸い実家に畑がありました。知人に手伝ってもらいながら三週間で放牧地にして、厩を建てました」
実家でキャプテンクックを飼い、愛馬と幸せな時間を過ごした。
しかし、脚元がすっかり良くなったというわけではなかった。晩年は日に日に悪化。動く事すらなくなっていった。
「最後は蹄葉炎になってしまいました。夏の暑い日に、獣医に来てもらい、苦渋の決断をしました」
放牧地を作る際に手伝ってくれた皆が最期のお別れをするために集まった。すると、その頃には全く歩けなくなっていたはずのキャプテンクックが立ち上がり歩いて馬房から顔を出した。まるで、最期を悟り、挨拶をしに来たようだと皆が思う中で、キャプテンクックは星になった。
順風満帆と思われた矢先、今春、家族を襲った不幸
そんな晩年のキャプテンクックに、イギリスでアシスタントトレーナーをしていたロジャー・ヴェリアンと名乗る男に会わせた事があった。愛馬との悲しい別れを救ってくれたのが彼だった。06年、園部はダーレーに就職し、ロジャーの暮らすイギリス・ニューマーケットで働くようになった。当時、私は園部に付き合い始めたばかりのロジャーを紹介してもらった。2010年、2人はめでたく結婚式を挙げた。いや、正確に記せば、必ずしも“めでたい”式ではなかった。
「式の5日前にロジャーの兄が亡くなっていました。この時ほど落ち込んだロジャーを見た事はなく、式は出来ないと思いました。でも、お義父様が『既に1人の子に悲しい思いをさせたのに、もう1人までまた悲しい思いをさせられない』と仰られて、挙げる事になりました」
こうして喜びと悲しみのミックスフィーリングの結婚式が行なわれた。
翌11年にはロジャーが調教師となり厩舎を開業した。いきなり110頭からの開業で園部も急転直下で多忙な日々を送るようになった。
厩舎の経営方針、セリなどでの馬の選定、クライアントとのやり取りなど、可能な限りのサポートをするのが園部の仕事になった。G1挑戦前は日本流に“かつ丼”を作るのも仕事の一つだった。
そんな縁の下でのサポートもあり、開業年にナーレインがオペラ賞を優勝。いきなり初のG1勝ちを飾った。
その後も順調に成績を残した。15年の秋にはポストポンドらが転厩。同馬は翌16年、ドゥラメンテを破ったドバイシーマクラシックなどG1を3勝。同馬の引退後もアジマンプリンセスがジャンロマネ賞(仏G1)を、またシェイカレイカがE・P・テイラーS(加G1)を勝つなど、躍進に陰りはなかった。厩舎での預託馬は180頭まで増えてスタッフも100人を超した。私生活では2人の女の子と1人の男の子、計3人の子宝に恵まれ、順風満帆と思われた。
ところが今春、思わぬ不幸に襲われた。
一時帰国した園部が、イギリスに戻った5月25日の事だった。家に帰るとロジャーも、3人の子供達もいなかった。いつまで経っても帰って来ない。不審に感じ始めた園部が連絡を取ると、一番下の娘が病院に運ばれている事が分かった。
「遊具で遊んでいて大怪我を負っていたんです」
その遊具の事を以前から危険だと感じていた園部は悔いた。ようやく会えたロジャーは、兄を亡くしたとき以来という悲しい表情を見せていた。園部は、本当の不幸とは自分に襲いかかるモノではない事を、改めて思い知らされた。
娘の怪我は簡単には癒えなかったが、その翌日にはフランス遠征中のザビールプリンスがイスパーン賞(G1)を勝利した。また、治療の目処が立った5月31日には、デフォーが好メンバーの揃ったコロネーションC(G1)を優勝。同馬が先頭でゴールした瞬間、園部は号泣した。
「競馬で泣く事は滅多にありません。でもこの時は娘の事が頭に浮かぶと溢れ出る涙を止める事が出来ませんでした。地元の記者には『そんなにエモーショナルな勝利なのか?』と訝られました」
デフォーはその後、ロイヤルアスコット開催のハードウィックSも連勝で制す。傷ついたロジャーと園部の心を、このせん馬がほんの少し救ってくれた。
助けてくれた馬を、今度は助ける番
苦しい時、困った時、いつも馬が助けてくれた。キャプテンクックの頃からそうだった。園部はそう思うと、逆に馬を助けてあげる手段が何かないかと考えるようになった。その結果、引退馬のセカンドキャリアについて真剣に考え、シンポジウムにも積極的に参加するようになった。
「今では競走馬の余生に対し責任を持てない人が競馬を楽しむ資格はないと考えています。例えばオーストラリアでは全ての競走馬が最期までどこでどう過ごしていたかが分かるシステムが構築されています。シェイク(モハメド)も競走を引退した馬を乗用馬としてリトレーニングしてから新しい馬主に渡す活動をしています」
それも、引き渡しておしまいではなく、その後の様子も監視。馬が幸せに暮らせていないようなら再び引き取り戻すなど、しっかりとしたケアーをしているのだという。
「日本もそうなって欲しいので、少しでも力になれれば……と活動をしています」
私が園部の元を訪れた6月初旬には、サンクスホースプロジェクトを進行する調教師の角居勝彦も現地を訪れていた。そして、ニューマーケットを拠点にこの手の活動をするRoR(リトレーニングオブレースホーシズ)の人を混じえ、シンポジウムを行なっていた。彼等の運動が大きな波となり、全ての競走馬がキャプテンクックのように最期まで愛されながら看取られる日が来る事を願いたい。それが我々競馬を愛する者に課せられた義務である事を、園部と今は亡きキャプテンクックが教えてくれた気がした。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)