JR日田彦山線の不通区間 廃止か、復旧か。4つのプランを考える
今年7月の九州北部豪雨は鉄道網にも大きな打撃を与えた。九州内では熊本地震や台風による不通区間も多く、地域の足として動くべき普通列車や注目されている観光列車などが運休したり、区間変更したりしている。このうち北九州市と大分県日田市を結ぶ日田彦山線は添田-夜明間(29・2キロ)で運転を見合わせ、夜明駅から乗り入れている久大本線も17・6キロで不通。久大本線は復旧が予定されているが、日田彦山線に関してはJR九州単独での復旧が困難だという見通しが報じられた。
JR九州は1キロあたりの1日平均乗客数(輸送密度)を発表している。日田彦山線は路線の中間地点に近い田川後藤寺駅を境に南北に分け、北側の城野-田川後藤寺間は16年は2595人だった。一方で福岡と大分の県境を越える区間となる南半分、田川後藤寺-夜明間は299人と少なく、JR九州の中で最も悪い部類に入る。廃止が議論されるのもやむを得ないが、輸送密度200人前後で生き残っている路線もあり、同約300人の区間は数字上からは判断の分かれるところだ。
はたして日田彦山線の将来はどうなるのだろうか。どの区間を他の交通機関に転換すべきか、路線の特長を見ながら検討してみたい。
本稿ではいくつかの資料を引用するため冗長になる。検討したい存廃区間については後段の「B:4つのプラン」で触れる。日田彦山線の沿線概況についてすでに予備知識があれば、「B」まで飛ばしていただいて構わない。
A 添田-夜明間の歴史と現状
紆余曲折の日田彦山線南側工事
このAの章では、日田彦山線の存廃に触れる前に、簡単に歴史を紐解いていく。
日田彦山線は複雑な歴史をたどってきた。ただ、おおむね筑豊炭田のあったエリアを境に事情が異なり、田川郡添田町以北は石炭運搬を主目的に路線網が発達。国有化と小倉地区、田川地区の路線改変を経て60(昭和35)年までに現在のルートに落ち着いた。炭鉱なき今、日田彦山線の北側区間はもっぱら北九州市への通勤通学の足になっている。
路線は前身の一つ、豊州鉄道が1896(明治29)年に敷設した伊田-後藤寺間の開通が端緒。1915(大正4)年には小倉鉄道が東小倉-上添田間を開設した。明治末期から大正初期にかけては、水運に比べて輸送が安定している鉄道が積極的に敷設され、産炭地と港湾を結ぶ路線が各地に完成した。
1898(明治31)年に発行された「筑豊炭鉱誌」(高野江基太郎著;1975年復刻版)は、「筑豊四郡の炭坑は元、遠賀川の水運を目的として起こりたり。しかれども渇水時に枯渇して運搬の不便言う可からす為に、筑豊鉄道の発企あり」と記述し、1897年には水運は鉄道など陸運の4分の1にまで減ったことを記録している。
鉄道輸送に注目が集まり、「各鉄道争ふて線路を延長せんとし、新起の鉄道、またその敷設に営々たる」(筑豊炭鉱誌)状況。田川市周辺は多くの鉄道が敷かれ、小倉鉄道は開通翌年には6往復だった便数をすぐに9往復にまで増やした。
その一方で、今回の被災区間に重なる添田-夜明間は計画こそ持ち上がるが敷設が遅れていた。沿線に宝珠山炭鉱(現東峰村)があるものの、田川付近ほどは炭鉱数や出炭量に恵まれず、さらには山がちな地形で、線路を敷くには橋やトンネルなどの構造物が多く必要だった。
時代が異なるが、1939(昭和14)年の宝珠山炭鉱の出炭量は12万4263トン。これは三井田川(196万4732トン)や二瀬(現飯塚市、101万7476トン)に遠く及ばない。
(数値は筑豊石炭鉱業史年表および本邦鉱業ノ趨勢による)
こうした状況と大正末期の不況も災いして、昭和に入るまで進展はなかった。転機は1927(昭和2)年。「添田・日田間鉄道速成連盟発起人会」が立ち上がり、帝国議会でも審議が始まったのだ。そして33年、ようやく鉄道省で省議決定。このときの様子を当時の新聞は次のように伝え、決定までの紆余曲折をにじませた。
既存計画を変更し、最大勾配を緩和し、ようやく添田-夜明間が4工区に分かれて35年に着工。2年後には早くも宝珠山-夜明-日田間が先行開業した。
難工事を経て完成も…
宝珠山村史によれば、着工後は順調に工事が進み、36年に着手した釈迦岳トンネル(4380メートル)の掘削も日進70メートルの速度で進んだという。ところが、「880メートルの地点で地質が急に変化し(略)破砕帯対策に追われ、まったく前進できない日々が続いた。工事事務所ではあらゆる手段を使ったが、うまくいかなかった」(宝珠山村史・歴史のなかの宝珠山村)。5年での開通を見込んだ工事は遅れ、さらには日中戦争の長期化などのあおりを受け、ついに41年に工事は中断してしまう。
終戦後の52年にようやくトンネル工事が再開。それでも出水に加え、落盤事故による死傷者を出す難工事となり、4年の歳月をさらに費やして56年に全通した。村史は「工事の再開は、第二次世界大戦の終戦を待たねばならなかった。近代化と国策・戦争とに振り回された村の一コマである」と伝える。戦前に建設された添田以北とは異なり、難産の路線となったのが、添田以南の現在不通となっている区間なのだ。
期待されていた石炭や木材などの輸送は時代とともに衰退。86年に貨物の取り扱いはなくなり、添田以南は急行や快速列車も全廃。現在は地域住民の足として、あるいは鉄道で英彦山や日田を訪れる旅行者の足として、2時間に1便ほどの列車が行くのみとなった。田川後藤寺-夜明間の輸送密度は87年の1103人から、昨年度は299人に激減している。
以上が日田彦山線添田-夜明間の概略である。なお年代や数値は福岡県史、宝珠山村史、筑豊石炭鉱業史年表(1973年)を参考とした。
B 4つのプラン
では、具体的にどの区間で廃止や復旧の可能性があるか考えていく。
考察の前提として、二つのポイントを示しておきたい。
ひとつは田川後藤寺以南の輸送密度は299人だが、一様に利用者や運行便数が少ないというわけではないという点。図示した通り、添田駅までは1時間に1往復程度の便数が確保され、昼間でも利用客がいる。また、彦山駅は修験道の霊場として知られる英彦山(ひこさん)の玄関口として機能し、行楽シーズンを中心に観光客や登山客の利用がある。便数が最も疎になるのは彦山駅以南だ。
もうひとつのポイントは、鉄道事業そのものの収支だけでなく、社会的な便益を計算するべきだという考え方。ローカル線をバス転換するべきかどうかを考える際に参考になる視点で、浅井康次編著「論説地方交通」(2006年、交通新聞社)によれば、「鉄道利用者の時短効果、移動コスト低減効果や交通事故軽減効果、CO2排出削減効果、渋滞緩和などの諸便益を投資などの費用と比較してプロジェクトの採択を決すべき」というもの。
本線では鉄道のほうが時短効果のある部分があり、釈迦岳トンネルを挟む区間は圧倒的に鉄道が優位。同トンネル前後の彦山-筑前岩屋-大行司間は日田彦山線ならば15分だが、県道52号は斫石(きりいし)峠付近などの未改良区間を残し路線バスの通行は困難(現在は通行止め区間がある)。国道500と211号を通るルートは迂回距離が長く、ここをなぞる代行バスは倍近い28分を要している。(本稿冒頭の図参照)
こうした点を踏まえ、
1.全線復旧
2.添田-夜明間廃止
3.添田-彦山間復旧、彦山以南廃止
4.添田-筑前岩屋間復旧、筑前岩屋以南廃止
の4つのシナリオについて考えてみたい。
1 全線復旧
復旧費は100億前後か。ポイントは地元負担と未来描写
筑前岩屋駅以南に被害が集中し、JR九州の発表資料(リンク先はPDF)は被害カ所を示すバツマークがびっしりと並ぶ。3日に西日本新聞が報じた記事ではJR九州・青柳俊彦社長の次のような話が紹介された。
実際に橋りょうや路盤の崩壊が多く、路線そのものを作り直すくらいの工事量になることは疑いようもない。
今のところ同区間の復旧費用の概算が出ているわけではないが、参考になりそうな例をみていくと、11年の豪雨災害で大規模な被害が出た只見線の会津川口-只見間(福島、27・6キロ)の復旧費用は約108億円にのぼる。復旧後は地元自治体が施設を保有し、JR東日本が車両を走らせる上下分離方式で運行する方式を採用する。
15年の高波や台風などで被災した日高本線(北海道)の鵡川-様似間(116キロ)はJR北海道が復旧費用を86億円と試算。13年の豪雨災害で橋りょうの流失や路盤崩壊などがあった山口県内の山口線と山陰本線(計約40キロ)の復旧費用は約65億円だった。状況は大きく異なるが、復旧後に第三セクターの三陸鉄道に移管する山田線(岩手、55・4キロ)は岩手日報の記事などによれば約200億円ほどが見込まれている。
被害がそれぞれ異なるため一概には言えないが、日田彦山線も全線復旧には100億円前後の費用が掛かるのではないだろうか。ローカル線の復旧では3分の2ほどを地元自治体が負担しており、日田彦山線においても福岡県と大分県の費用捻出は復旧の条件になる。
ただ、全線復旧しても無策では利用者が少ない状況は変わらず、赤字を補てんする追加負担も避けられない。観光客や「観光列車」を誘致したり、沿線住民に鉄道回帰を促したりして持続可能な鉄道の未来像を描かなければ、廃止の延命だけになってしまう。全線復旧が最良とはいえ、沿線の覚悟も問われるプランだ。
2 添田-夜明間廃止
しわ寄せは利用者に。バス転換で実質的な「値上げ」
現状の不通区間をそのまま廃止とする案は、JRと自治体にとって負担は少ない。また、上述したように災害前も大半の列車が添田駅で折り返しており、利用客の大半が添田-夜明間の廃止で困惑することはないだろう。
ただ、添田以南も集落があるほか、観光資源となっている英彦山がいっそう遠くなり、観光への影響は避けられない。また東峰村は鉄道を失うため、県道52号の改良を加速させるなど、村南部への道路網の整備が重要になる。
代替バスの運行も長い区間で必要になる。運行初年度は車両や停留所の確保、運転士の習熟などで費用が必要で、2018年に廃止されるJR三江線の沿線自治体、島根県江津市は準備に2億5千万余りを予算案に計上した。
また運賃は民間バスと近い額に引き上げられる。例えば、中国運輸局が8月に開いた代替交通確保調整協議会幹事会の資料には三江線代替バスの運賃として10キロ550~600円、20キロ850~900円などといった数字が記載されている。日田彦山線もバス転換された場合は、現行の2倍以上への値上がりも考えられ、利用者の負担増が予想される。その一方で運賃を上げたとしてもローカルバス路線を黒字化するのはハードルが高く、自治体が赤字分を穴埋めする必要もある。
運賃負担増などからバス転換後に利用客が減る前例は多く、リスクに関しては従前から全国各地で指摘されている。鉄道まちづくり会議編「どうする?鉄道の未来」(2004年、緑風出版)では、「代替バスへの転換計画では、こうした利用者の減少を見込んでおらず、加えて継続的な維持の取り組みもされていません(略)ことに定期券が鉄道の数倍になるケースが多くみられます。こうした条件を充分に考慮しないまま鉄道の廃止が実施されるケースが少なくありません」と問題視している。
3 添田-彦山間復旧、彦山以南廃止
観光客の足を確保。東峰村南部や日田市方面への足に課題
比較的被害が少ない彦山駅まで復旧させるという案も十分に考えられる。添田-彦山間(7・7キロ)で被害があったのは第二彦山川橋りょうの橋脚傾斜、第三彦山川橋梁の桁損傷など9カ所。費用を想像する類例として、橋りょうや護岸に被害が及んだJR根室本線の東鹿越-上落合信号場間(17・4キロ)ではJR北海道が10億5千万円を見込んでいる。
添田-彦山間には規模の大きな道の駅の「歓遊舎ひこさん」があり、JR九州も2008年、隣接地に新駅を開業させた。この区間は英彦山への誘客や沿線観光地の振興に繋がるだけに、存廃の影響も出やすい。
目に見える損傷が少なく、添田町を走るタクシーのドライバーは「彦山駅までは被害はそれほどないと思う。早く走り出せばいいが、どうなるかは分からない」と話す。また、添田町営バスは日田彦山線と接続して英彦山神宮に向かう路線を持っているが、休日は暫定ダイヤで運行。時刻表には「復旧するまでの時刻表です。JRが復旧次第もとの時刻表に戻ります」との注記を書き入れている。添田町営バスは大判の時刻表にも記載がある観光路線のため、暫定ダイヤが続くのは決して好ましいことではない。
この案でも県などへの費用負担は発生する。行き止まりの盲腸線になるという不利も生じ、やはり復旧後の将来像を地元中心にしっかりと描かなければならない。釈迦岳トンネル以南への鉄道のルートがなくなるため、「2 添田-夜明間廃止」の案同様、東峰村や日田方面への足をどう確保するかも議論が必要で、バス転換のリスクも考えなければならない。
4 添田-筑前岩屋間復旧、筑前岩屋以南廃止
釈迦岳トンネルを生かし速達性維持。負担は増加
迂回に時間のかかる区間までを復旧させるという案だ。釈迦岳トンネルを迂回する道路は狭隘だったり、遠回りだったりと決して利便性は高くなく、直線的なトンネルの強みを生かして筑前岩屋駅までを復旧させるのも検討に値する。
しかしこのプランは全線復旧案の次に費用が掛かる。
今回の災害で筑前岩屋駅そのものが土砂に埋まり、釈迦岳トンネルは南側坑口付近が水没した。この復旧に掛かる費用もさることながら、原状回復だけでなく筑前岩屋駅構内の改良も必要となるだろう。
筑前岩屋駅はかつては行き違いができる駅構造だったが、近年はホームの片側しか使われていなかった。終着地とするには設備の増強を施さねばなるまい。ただ、迂遠を避け、東峰村南部への足も確保されるため、費用便益の観点からみれば一定のメリットがある。
遅延する代行バス。鉄道の優位性はある
ネックになる費用の問題を考えれば、やはり添田駅や彦山駅の以南を廃止にする案は有力な候補になるだろう。それでも、全線復旧ないしは「4 添田-筑前岩屋間復旧」のプランも机上には並べていたい。
10月7~9日の連休中、東峰村小石原地区で陶器市があり国道211号線などが激しく渋滞した。代行バスも巻き込まれ、日田駅発添田行きのバスは、1時間45分遅れで添田駅に到着。定時性に劣るバスのデメリットが如実に現れた形となった。
陶器市などのイベントは週末に行われるため、日常の足にはあまり影響しないかもしれないが、15分で通り抜けられる区間で1時間以上を要した事実は重い。筆者もバスの遅れのため、添田発の列車を2本分逃してしまった。余裕のあるスケジュールを組んでいたため問題はなかったものの、難工事の末に最短ルートを開拓した釈迦岳トンネルの威光を見たような感じだった。
地元が望む解決策を
負担と効果のバランス
鉄道の復旧は被災地にとっては復興のシンボルになりうる。だが、重要なのはどのような交通体系を利用者が望むかだ。復旧が望まれているならば、なるべく早く、なるべく長い距離で再開させるべきだし、望まれていないなら多大の負担をしてまで復旧させることはない。
また、単純な採算だけで見れば黒字転換は困難な区間の復旧を、地元自治体とJRだけで負担せず、積極的な国費の投入があってもいいだろう。高速道路同様、鉄道も袋小路の盲腸線にならずにネットワークを構成してこそ機能する。
いくつかのプランが考えられる日田彦山線の近未来。ぜひ日田彦山線を生活の一部としている人たちの声に寄り添い、議論を尽くして、歴史の染みこんだ路線の行先を決めてほしい。使わない人の「あれば便利」の声よりも、使う人にとってのメリット、地元の負担、地域への波及効果・便益を見定め、その均衡のとれる場所が落としどころとなる。