【戦国こぼれ話】黒田官兵衛の祖父・重隆とは、どういう人物だったのか。本当に目薬屋だったのか
山陽電気鉄道では「釣り手帳」を作成し、主要駅で無料配布している。黒田官兵衛がNHK大河ドラマの主人公になると、妻鹿駅(兵庫県姫路市)周辺のゆかりの地を地図に盛り込んだ。今回は、官兵衛の先祖について考えてみよう。
■官兵衛の祖父・重隆
黒田氏として一次史料に初めて登場するのが、高政の次男・重隆(官兵衛の祖父)である。しかし、高政は系譜上の人物にすぎず、たしかな史料では存在を確認できない。実質的な黒田氏の祖は、重隆ということになろう。次に、『黒田家譜』などにより、重隆の足跡を簡単に確認しておこう。
永正5年(1509)、伊香郡黒田村(滋賀県長浜市)に誕生した重隆は、父とともに備前国福岡(岡山県瀬戸内市)に移住した。しかし、やがて浦上村宗が台頭したので、難を逃れるべく姫路(兵庫県姫路市)に移ったという。のちに黒田氏が筑前国福崎を福岡に改称したのは、備前国福岡にちなんだといわれる所以である。
備前国福岡は、商業都市として知られている。陸上交通では山陽道に面しており、河川交通は吉井川の水運が支えていた。福岡には市が立ち、西国でも有数の規模を誇ったという。付近には備前長船の刀鍛冶や備前焼の職人も集住しており、産業も発達していた。
しかし、福岡で重隆が過ごしたというたしかな史料が存在しないので、福岡に移ったという説には従えない。また、浦上村宗が西播磨一帯に勢力を及ぼしていたことを考慮すると、備前国福岡から姫路に逃れたところで意味がない。その点で、黒田氏の福岡移住説はもっと検討が必要だろう。
■目薬屋だった重隆
姫路での重隆の生活ぶりを伝えるものとして、『夢幻物語』(江戸時代中期に成立)がある。同書によると、重隆が目薬屋として立身出世を遂げた話が記されている。非常によく知られた話である。いったいどのようなストーリーなのか、内容を確認しておきたい。
重隆は夢のお告げによって、広峯神社(兵庫県姫路市)に詣でた。重隆は牢人(浪人)生活を送っており、経済状態が厳しかった。あるとき、重隆が神主の井口太夫と話をしていると、黒田家秘伝の目薬の話になった。その目薬を祈禱札と配ると、すっかり効能が評判になったというのである。
こうして重隆は、目薬を売った代金で一財産を築いた。そして、重隆はその財産を元手にして、低利の貸付を行った。さらに、田畑を買い、新田を開き、耕作に専念したという。金融業や土地集積で成功した重隆のもとには、仕官を希望する者が200人余りになったのである。
目薬売りというのは、いささか疑問が残るが、重隆が富裕層に属していた点には、着目すべきであろう。目薬販売は別として、金融業で財をなしたという点は一考の価値がある。当時、土地集積で財を成した土豪は少なからずいたので、可能性は高いといえる。
■小寺氏に仕えた重隆
姫路で有力な土豪に成長した黒田氏は、御着城主の小寺氏の目に留まるところとなった。黒田氏が財を成したことが、小寺氏への仕官の契機になったと考えられる。経済的な手腕などの才覚が認められたのだ。
重隆が史料上で確認できるのは、天文11年(1542)7月のことである(「芥田文書」)。このとき重隆は山脇職吉と連署し、小寺則職の意を奉じた奉書を発給している。内容は、麦の年貢免除を伝えたものだ。山脇氏については不明であるが、黒田氏と同じく姫路近辺の土豪だったと推測される。2人は、小寺氏配下の有力な被官人だったのである。
これまで黒田氏が仕えたのは、小寺政職が有名であるが、実際にはその父・則職の代から仕えていた。そして、この段階で重隆は「宗卜」と署名しているように、すでに出家していたのである。「宗卜」という法名は、『黒田家譜』の記載と一致する。
■重隆の死
その後、重隆の動静は途絶え、永禄7年(1564)に没したという。つまり、重隆は天文初年の段階から則職に仕官したことが推測される。ただ、この段階では小寺姓ではなく、黒田姓を用いている。重隆は小寺姓を名乗った子の職隆のように小寺氏家中に組み込まれたのではなく、自立的な様相だったと考えられる。
官兵衛の祖父・重隆の経歴は神秘のベールに覆われているが、たしかに実在する人物である。しかし、その経歴については俗説に惑わされることがないよう、十分な注意が必要である。