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相模原障害者殺傷事件・植松聖被告が初めて書いた獄中手記

篠田博之月刊『創』編集長
便箋に書かれた植松聖被告の獄中手記

 2017年10月3日に相模原障害者殺傷事件の植松聖被告に何度目かの接見をした。ちょうどアメリカで銃乱射事件の起きた直後だったが、植松被告はそのニュースを毎日流れるFM横浜のラジオで聞いたらしい。「恐ろしい事件ですねえ」と言うのだが、植松被告が他人事ふうにそう言うのを聞いて「君の事件も恐ろしいけど」と言うと苦笑していた。

 さて10月7日発売の月刊『創』11月号には、植松被告の獄中手記を掲載した。2016年7月26日未明の19人もの死者を出した津久井やまゆり園での事件には、現場の詳細についてまだ明らかになっていないことが多い。全貌は本人しか知りえないのだが、なぜ植松被告があの事件に自らを駆り立てていったかを含めて、可能な限り真実を明らかにしたいと思っている。

 今回の手記には事件直後、植松被告が津久井警察署に出頭してからの経緯を書いてもらった。その冒頭部分をここに公開しよう。

植松聖被告が書いた出頭時の状況

《2016年7月26日未明、津久井署に向かう途中、コンビニへ寄りタバコとエクレア、コーラを買いました。

 コンビニから津久井署は車で5分程ですが、その間にタバコを3本吸い、コーラをがぶ飲みして、エクレアは半分しか食べきれず署に着いてしまいました。

 ゆっくり食べてから出頭しても良かったのかもしれませんが、エクレアを食べている時に逮捕されてはマヌケすぎると思ったからです。

「今、やまゆり園で起きた事件の犯人は私です。世界平和の為にやりました」

 このような言葉で自首したと思います。

 とりあえず取り調べ室に移され、簡単な調べをうけました。全力で走り続けていた私は、椅子に座わると安堵からか身体中の筋肉が引き吊りました。

 その空間は現場に着いたお巡りの声が無線から流れています。

「えーー負傷者は、えーー今は、えーー」

 まるで分からない報告は、現場の混乱がよく伝わりました。

 鍔(つば)のない包丁で刺したので、右手の小指は肉がえぐれ飛び出していました。それまではどうしたこともなかったのですが、少しずつ痛みが増してきました。

「絆創膏(ばんそうこう)を貰えますか?」

 無愛想なおじさんは、その言葉をシカトします。この時に、自分が犯罪者として扱われている自覚を持ちました。

 その後、現場に連れていかれましたが、たくさんの救急車やパトカー、近隣の住民方が並んでいました。侵入する為にハンマーで割ったガラスを指さした写真を撮られ、そこで手錠をかけられたと記憶しています。》

 

植松聖被告からの手紙の中身

 この後は取り調べの様子が書かれているのだが長くなるので割愛する。同じ『創』11月号には、この間、植松被告と交わした接見や手紙の内容も紹介した。障害者を殺害するという行為について、あるいは彼が自分が死刑を宣告される可能性や自分の死についてどう考えているのか、そうした議論を植松被告としているのだが、彼の手紙の内容も興味深い。

 

 植松被告は、障害者を殺傷したことは正しかったと言いながら、被害者の家族を悲しい目にあわせたことは本意ではなかったと謝罪している。ナチスの大量虐殺についても、障害者を虐殺したことは正しかったが、ユダヤ人虐殺は誤っていたという。しかし、そういう線引きは果たして可能なのか。大切だと認める命と価値がないという命をどう区別するのか。そんな疑問をこの間、植松被告にぶつけてきた。

 

 9月5日に植松被告に接見した時のやりとりの一部を紹介しよう。

――君は昨年、津久井やまゆり園に侵入した時、抵抗した職員に向かって、自分も命を賭けているんだと言ったそうだけど、この事件で死刑になる可能性があることは理解しているわけね。

植松 はい。

――死刑になるかもしれないと覚悟してやったわけだ。

植松 はい。

――君は2月に接見禁止が解除された直後にマスコミの取材を受けて、事件の被害者家族に謝罪をしたけれど、家族には申し訳ないと思っているわけね。

植松 そうです。

――でも障害者への気持ちは今も変わらない。そこがわかりにくいのだけれど、どの命も大切だという考えはないの?

植松 いや、そこは全然違うと思います。

 彼との議論はいつも平行線だ。でも次に届いた手紙を読むと、「とても考えさせられました」と書いている。そうであればこそ、植松被告とは今後も議論していかなくてはならないと思う。

 私が接見したその日に、彼はすぐに手紙を書いたようだ。9月5日付の手紙でこう書いてきた。

《本日も遠くまで面会に足を運んで頂きまして、誠にありがとうございました。

 この度の面会で、篠田先生の言われました最後の質問は、とても考えさせられました。そして、上手く言葉にしてお伝えするには難しい内容ですが「人間が幸せに生きる為に、心の無い者は必要ない」と、考えております。

 大変恐縮ですが、篠田先生は死刑囚の肩をもつ文章が見受けられますが、それは、長年つきあう中で産まれた哀れみや同情と思います。

 それこそ人間のもつべき心情ではありますが、心失者を擁護しては誰も幸せになりません。

「罪を償う」とは「人の役に立つ」と、考えることはできないでしょうか。

 しかし、人の役に立つことは容易ではございません。

 生きる為には常に与えられる必要がありますので、その対価を支払えないと判断され、死刑になるのは仕方が無い選択ではないでしょうか。

 なにとぞ、宜しく御願い申し上げます。》

 その前の8月26日付の手紙で彼はこう書いていた。

《私の推測では、これから日本は戦争の中心となり、その戦火で私は死ぬと考えています。残念ではありますが、命を賭けた結果ですので、死を受け入れてはいます。

 篠田先生は「死」について、どのようにお考えでしょうか。私は十中八・九「無」だと思っています。

 終わりが無なら、がんばっても意味が無いと考えることもできますが、それでは“人間”として生まれた幸運を無駄にしてしまいますし、分からないことを考えても仕方がありませんので、自分ができることを精一杯がんばります。》

 植松被告は今のところ、事件を起こした自分の想念を変えるつもりはないようで、議論は最後には平行線に終わるのだが、しかし彼がその自分の想念について疑問を投げられ、それについて考え、さらに自分の気持ちを語るという、このプロセスは、あの凄惨な事件を解明するうえで極めて大事なことだ。植松被告は、安楽死すべき命と尊重すべき命の間を線引きしてみせるのだが、実はその境目は彼自身にとっても曖昧だ。

 例えば彼は死刑囚という存在も、生きながらえるのは税金の無駄だと主張するのだが、自分が死刑囚となった場合に、いったい自分自身をも生きる価値がないという側に含めるのかどうか。死刑囚は生かしておくのが無駄な命と彼は分類するのだが、仮に自分が死刑判決を受けた場合のことを彼は想像できているのかどうか。それは、障害者と健常者を画然と区別して命の重さに差をつける彼の基本的想念の矛盾とも重なってくるのだが、植松被告と話していていつも疑問に思うところだ。

 それから、この場を借りてお伝えしたいが、この間、いろいろな方からたくさんのお手紙やメールをいただいている。特にこれまで障害者と関わってきた方々、障害者支援施設で働いてきた方々からの体験に根差した指摘には考えさせられることが多い。それらの指摘は植松被告にも伝えるつもりだし、いずれ機会を見て整理し紹介したいと思う。

 『創』は2016年10月号の総特集を皮切りにこの1年間ほどこの事件について多くの方の声をとりあげ、2017年9月号、10月号、そして今回の11月号と、植松被告の声や事件の被害者家族の声を掲載している。ぜひこの事件が提起した多くの問題について、一緒に考えてほしいと思う。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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