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和歌山カレー事件・林眞須美さんが長女の死という衝撃の渦中に送ってきた手紙

篠田博之月刊『創』編集長
林眞須美さんから6月17日、7月6日と立て続けに手紙が(筆者撮影)

【はじめに】この記事は2021年7月8日夜遅く書いて9日朝に公開したものだが、驚いたことに9日昼前に再び林眞須美さんから7月6日付の手紙が2通届いた。前回私が彼女への返信に書いたことへの返答も含まれている。死刑確定者との通信は厳しく制限され、家族や弁護士以外は手紙のやりとりが難しい現状で、通信がここまでできたことにいささか驚いた。眞須美さんが拘置所を何度も提訴して権利を獲得してきた成果と言えるだろう。

 もちろん今回は再審をめぐる動きに限定した特別発信という例外的なものだ。同時に彼女は礼状発信という枠も使って2通送ってきた。6月17日付と合わせて3通の手紙が届いたことになる(写真)。死刑囚とのつきあいの多い私にとってもこれは異例で興味深いのだが、その話は措いて、ここでは以下、7月6日付の手紙を受け取る前夜に書いたものをそのまま掲載する。

林眞須美さんから突然の手紙が…

 和歌山カレー事件の林眞須美さんから先頃、突然、手紙が届いた。6月17日7時30分特別発信と書かれている。

 受け取って発信人が眞須美さんと知って驚いた。死刑確定後も裁判に関わる資料などのやりとりは許可されているから、時々彼女からの手紙を受け取ることはあったが、今回は特別だ。6月17日と言えば、彼女の長女が自殺したことが週刊誌などで大きく報じられ、騒動になっていた最中だったからだ。

 その長女の死についてはヤフーニュースに以前書いた記事を参照してほしい。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20210614-00243019/

 和歌山カレー事件・林眞須美さんの長女のこれが最期だとしたらあまりに悲しすぎる

 事件の真相はいまだに明らかになっていないのだが、眞須美さんからの手紙はまさにその時期に届いたのだった。

 実は偶然なのだが、事件の起きた6月9日には眞須美さんにとって大きなもうひとつの出来事があった。5月31日付でなされていた和歌山カレー事件の新たな再審請求がその日、和歌山地裁に受理されたのだった。

 それを受けて再審請求の弁護人となった生田暉雄弁護士が会見を行ったのは16日。眞須美さんの発信は翌朝だから、生田弁護士が会見を行ったことを踏まえて16日に書いたものだろう。

 封筒に入っていたのは261ページにも及ぶ再審申立書の原本で、眞須美さんは私に、それを何部かコピーして送り返してほしいと依頼してきたのだった。

 昔、彼女が月刊『創』(つくる)に何度も手記を発表していた頃には、判決日に着る勝負服である真っ赤な衣服の差し入れなど、彼女からは様々な依頼がなされ、応じていた。死刑が確定してからも裁判資料をコピーしたり、識者にそのコピーを送ってほしいといった依頼は何回か受けていた。

 その依頼自体には当然応じるし、確かに大変ではあったが、コピーした何部かの束と原本を彼女に週明けに返送した。

長年続いてきた再審請求を眞須美さんが取り下げる仰天事態

 ところが驚くべき事態はその後に起きた。新たに始めた再審申し立てが受理されたのを見届けたうえでの行動だったのだろう。彼女は、これまで長年行われてきた安田好弘弁護団による再審請求、1審2審で棄却され、最高裁で審理がなされていたものを6月20日付で自ら取り下げるという行動に出たのであった。私にとっては仰天の事態だった。

 私はカレー事件のあった1998年の夏、当時、報道陣が24時間、林さんの家を取り囲むという集団的過熱取材の実情を取材するために何度か林家を訪れ、それ以来一貫してこの事件に取り組んできた。マスコミの包囲の中で、眞須美さんはその対処法をめぐって私に電話で相談をしてくるといったこともあった。

和歌山カレー事件当時、林家を取り囲んでいた報道陣(筆者撮影)
和歌山カレー事件当時、林家を取り囲んでいた報道陣(筆者撮影)

 和歌山カレー事件は、集団的過熱取材の典型としていまだに語り継がれている。1998年8月25日の朝日新聞のスクープ報道によって、近々逮捕という情報が流れ、報道陣が林家を取り囲んで24時間張り込み態勢に入り、出入りする人は玄関を出るたびにカメラの放列にさらされるという異常な状況が10月4日の逮捕まで続いた。

 和歌山県警は逮捕を狙っていたのだが、検察の上層部から、立件は大丈夫なのかという危惧の念が示され、逮捕のチャンスが何度か見送られていたらしい。状況証拠だけで死刑判決をくだしたこの事件は、逮捕時点から捜査側が危惧の念を抱いていたほど、証拠構造は脆弱だった。それにもかかわらず多くの市民が眞須美さんが犯人と信じ込んでしまったのは、マスコミ報道の影響だろう。

 10月4日に逮捕された後、一貫して黙秘を続けた眞須美さんは長期にわたる接見禁止となり、私が再び眞須美さんに会えたのは、逮捕から7年後、高裁でまもなく判決が出ると言われた2005年だった。7年間もの接見禁止という、これもまた異常な状況だった。家族はその前年頃から接見が許可されたようで、2005年、健治さんが出所したことで、再び家族同士の交流がなされていた。

 2005年6月28日の高裁判決の日、眞須美さんは私が差し入れた真紅のハンカチを胸ポケットに入れて法廷に臨んだが、期待虚しく2審も有罪、死刑判決だった。

1・2審の弁護団を解任、最高裁から安田弁護団が

 驚いたのは、その後、1審と2審をともに闘った弁護団を、眞須美さんが解任してしまったことだ。高裁も死刑判決だったことに眞須美さんは苛立っていたのかもしれない。

 弁護団を解任したものの、最高裁での弁護を担ってくれる弁護士のあてがあるわけでもなく、何とかしてほしいと、彼女は私と、三浦和義さんに依頼してきた。ロス疑惑事件で無罪を勝ち取った三浦さんは、当時、眞須美さんの支援に乗り出していた。

 これだけの大きな事件に最高裁から関わる弁護士がそう短期間に見つかるはずもなく、私は「これは大変だ」と思ったが、そこで持ち前の粘り腰というか大変な力を発揮したのが三浦さんだった。最高裁での弁護人に、安田好弘弁護士を口説き落としたのである。

 その後、三浦さんは弁護団と歩調を合わせて支援する会を結成、自ら和歌山駅頭でビラまきを行うなど精力的に活動した。周知の通り、三浦さんはその後、アメリカの捜査当局に逮捕され、ロスに移送されて警察署で命を落とすという残念な結果になったのだが、逮捕前まで和歌山カレー事件の支援に取り組み、毎年、眞須美さんの誕生日7月20日前後に大阪で支援集会を開くという、昨年まで続いた支援の流れを作ったのだった。三浦さんの死後は、支援する会の代表を、『創』の執筆者である鈴木邦男さんが引き継いだのだが、その鈴木さんも闘病生活が続いている状況だ。

 ともあれ眞須美さんの20年余の闘いの中で、安田弁護団が最高裁から関わったというのは大きな出来事だ。安田弁護団は、2009年の上告棄却で死刑判決が確定してからも再審弁護団として眞須美さんをサポートしてきた。有罪の決め手となったヒ素鑑定を、京大の河合潤教授の協力を得て、論破していくなど、安田弁護団の取り組みは極めて精力的なものだった。

有罪の決め手となったヒ素鑑定を京大・河合教授が厳しく批判

 林家から押収されたヒ素と事件現場のヒ素が同一だとした起訴前の鑑定は、スプリング8という最新鋭の装置を使って行われたとして当時大きな話題になった。判決にも大きな影響を及ぼしたと思われるのだが、実はかなり杜撰なものだったとして再審請求の過程で、京大の河合潤教授から厳しい批判がなされてきた。河合教授は学術誌などにも論文を発表するなど、この問題には積極的に取り組み、大変注目されていた。

 さて今回、仰天の事態と先に書いたのは、その安田弁護団による再審請求が最高裁で争われている最中に、6月20日付で眞須美さんが再審請求取り下げを行ったからだ。

 生田暉雄弁護士を弁護人として新たな再審請求がなされたことは前述した。これまで続いてきた安田好弘弁護団による再審請求と、新たな請求と二本立てで進むことも可能なそうで、多くの関係者が、当然そうなるものと思っていたのだが、地裁・高裁と棄却されて最高裁にかかっていた再審請求を眞須美さん自らが取り下げてしまったのだった。

 弁護団は眞須美さんに接見して真意を確認するなどしたが、どうも本人の意思は変わらないらしい。眞須美さんは気丈な人で、こうと決めたら突き進むというところがある。2審の弁護団解任の時もそうだった。

 今回の取り下げは、長年、安田弁護団のもとで行ってきた取り組みを事実上終了させてしまうわけで、支援を続けてきた人たちにとっても仰天と言える事態だったと思う。

 ちなみに毎年7月に行ってきた支援集会には、眞須美さんの家族も参加して発言するなどしてきた。今回自殺したとされる長女の発言も興味深い内容で、眞須美さんの獄中手記などとともに創出版刊『和歌山カレー事件 獄中からの手紙』に収録されている。

今年7月の支援集会は開催されず

 安田弁護団と眞須美さんの関係がこの間、ギクシャクしていたのは事実のようだ。どうも眞須美さんは、自分の闘いが死刑廃止運動との関わりの中で語られることに釈然としない思いもあったようで、長男にもそういう話をしていたらしい。

 もちろん取り下げの背景はそれだけではなく、この1年ほどいろいろな経緯があったのだが、ここで詳述すると長くなるのでやめておこう。

 眞須美さんが新たな再審弁護人を探していたことも安田弁護団の耳に入っていたようだ。そして結果的に眞須美さんの依頼に応じたのが生田弁護士だった。

 今年7月の支援集会は、そうした事情もあって開かれないことになった。支援グループは生田弁護士の考えを聞くための会合を開催したが、そこで生田さんの方針を聞いた後、質疑応答で、「生田さんから眞須美さんの取り下げを何とかならないか説得してほしい」という意見も出されたという。

 ただ眞須美さんと安田弁護団の関係がこれで一切絶たれたわけではない。実は眞須美さんは、検察側のヒ素鑑定を行った教授を民事で訴えており、その口頭弁論が9月半ばに予定されている。河合教授の陳述が行われるそうで、こちらの民事訴訟については、安田弁護団の協力のもと、眞須美さんは今のところ継続する意向らしい。

 長女の死に新たな再審請求といろいろなことが重なったこの6~7月、眞須美さんはどんな具合だったのか、接見した長男のツイッターを引用しよう。長男は「和歌山カレー事件 長男」という名前でツイッター発信をしている。

《母、林眞須美からの手紙。居室に花を供え、供養につとめる、夢の中で、子供達が会いにきたとも書いていました。》(6月19日)

《面会へ行ってきました。

 死刑囚である母が娘や孫の供養をと話したところで世間の方々からすれば違和感を感じる事だとは思いますが、母の顔は青ざめていて、目に涙をうかべ「悔しい」と。

 これまで面会してきた中でそんな顔を見たのは初めての事でした。》(6月22日)

 『週刊文春』6月24日号は「4歳娘と無理心中 林眞須美長女の地獄」という特集記事を掲載しているが、その中の長男のコメントが何とも悲しいものだった。

「お姉ちゃんが死んだって聞いたときに『もう楽になったんだ。ゆっくり休めるんだな』って思った。『ちょっと羨ましいな』みたいな気持ちもあった」

 私と和歌山カレー事件との関わりはもう20年余。その長い経緯の中で、これまでも何度も大きな節目を迎えたことはあったが、今回の事態も大きな出来事といってよい。長女の自殺も眞須美さんにとって衝撃だったと思うが、再審請求や民事訴訟などの動きも新たな局面を迎えた。

 果たしてこうした動きは、今後、どうなるのか。気になるところだ。

 なお、長女の死と再審をめぐる動きという一連の経緯については、7月7日発売の月刊『創』8月号にも記事を掲載している。ぜひご覧いただきたい。

http://www.tsukuru.co.jp/

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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