【高校野球】自分で注射を打ちながら…難病とともに野球人生を歩む球児が「恩返しの夏」に挑む
第105回全国高校野球選手権記念宮城大会が7日、開幕した。開校、創部4年目の日本ウェルネス宮城の石澤蓮外野手(3年)は国指定の難病「血友病」と向き合いながら野球を続けてきた。リスクを抱えながらも中学から硬式野球をはじめ、高校では練習できない日々も過ごした。諦めかけた時期もあったが、高校3年の夏を迎え、「最後まで全力でプレーすることが恩返し」と意気込む。日本ウェルネス宮城の初戦は8日。石巻と対戦する。
※日本ウェルネス宮城の初戦は雨天順延により、9日になった。
■練習試合の好機で代打
6月18日の日曜日。日本ウェルネス宮城は本拠地である宮城県東松島市の鷹来の森運動公園野球場に大船渡(岩手)を迎え、練習試合を行なった。日本ウェルネス宮城のエース・大内誠弥(3年)はNPB12球団の担当スカウトがチェックし、将来性を評価している191センチ右腕。この日は4球団が視察する中で先発し、140キロのストレートにスライダーを織り交ぜて快投を披露していた。対する大船渡の先発は佐々木怜希(3年)。ロッテ・佐々木朗希の弟である右腕から日本ウェルネス宮城は3回に先制し、4回に安打4本を集めて3点を加えた。5、6回は佐々木が踏ん張ってゼロを並べたが、日本ウェルネス宮城は7回に敵失で加点。なおも1死一、三塁と畳み掛けたい場面で、金子隆監督は代打を送った。
左打ちの石澤蓮である。
一塁けん制からの初球ストライクで一塁走者が盗塁。1死二、三塁とし、2球目に石澤はバットを振り抜いた。打球はわずかに捉えきれず、三塁方向へのファウル。3球目はボールで、カウント1-2からの4球目。鋭い当たりではあったが、捕球した三塁手が一塁に送球してアウトとなった。
一人の高校球児が代打で登場し、凡退した。全国のどこでもあるような練習試合の一場面だが、それは、石澤本人と家族、チーム、そして石澤に関わった人々の物語の1ページであった。
■血友病とは?
石澤は国が難病に指定している「血友病」を患っている。自分の病気を知ったのは柴田町立船迫小6年の夏だった。
「野球で、確かデッドボールが背中に当たって、すごく腫れたんです。病院に行って、治療が終わった後、待合室で親から実はこういう病気を持っているんだよ、という話を聞かされました。びっくりして、この先も野球ができるのかな、と思いました」(石澤)
血友病とはどのような病気なのか。石澤の主治医である宮城県立こども病院血液腫瘍科科長の佐藤篤医師が話す。
「血が止まりにくくなる病気です。出血を止める凝固因子の欠乏症で、蓮君の場合は血友病Aです。血友病には第Ⅷ因子が欠乏しているAと、第Ⅸ因子が欠乏しているBがあり、蓮君は第Ⅷ因子が体に足りません。日本の患者数は6,000人から7,000人で、宮城県内の血友病の子どもは35人前後。血友病は遺伝性疾患のため、治すというより、ずっと付き合っていく病気です」
この時はボールが体に当たったことで内出血を起こしていた。
石澤の血友病が発覚したのは小学2年の時。母・亜紀さんの父、つまり石澤の祖父の弟が脳内出血で倒れたことがきっかけだった。「私の叔父が血友病だったんです。それは知っていたのですが、倒れた時に遺伝であるということがわかり、それも特殊で男の子が発症するということで蓮も検査をして分かりました」と、母・亜紀さん。「振り返ると」と続ける。
「歯が抜けた時や鼻血が出た時に止まらなかったんですよね。なんでだろう、と不思議には思っていました。結局、血が止まりにくい病気だったんです」
■注射をしながら野球を続ける
石澤が野球と出合ったのは保育園の頃。バレーボール経験者の父・聡さんが草野球でプレーする姿に「かっこいいな」と思っていた。そんな時、保育園の友達で、高校でもチームメイトの佐藤憲吾(3年)の兄が所属する少年野球チームを見学。「やりたい」と目を輝かせた。
チームに入ったのは小学1年になってから。それまでは「我慢していました」。ボールプールでボールを投げて遊ぶのが大好きで、やっと入団できた時は嬉しかった。
「小学生の頃は好きなことを思う存分できている感じで、楽しかったです。小さい頃は投げることが好きだったのですが、野球を始めてからはバッティングの方が楽しくなりました。自分で、こうやったら打てるかなとか探りながらやっていました」(石澤)
元気で活発だったが、小学6年まで病気の症状に困ることはなかった。日常生活にも支障はなく、どんどん野球にのめり込んでいった。
船迫中では軟式野球部に入ろうと思っていたが、硬式野球のクラブチームである仙台南シニアの体験会に参加。「練習の雰囲気がめちゃくちゃよかった」と入団を決めた。その矢先、練習でピッチャー返しの打球が右足のスネを直撃。小学生の軟式野球と中学の硬式野球では程度が違う。真っ黒に内出血した。
ここから不足している血液凝固因子を静脈注射で補うようになった。毎週、火曜日と木曜日は隣町の病院に通院し、野球を続けてきた。
現在は2018年に登場した薬を使っている。それは血管に注射する静脈注射ではなく皮下注射で、2週間に1回、自分で実施する自己注射で投与している。
「病院で練習した時は失敗しかしませんでした。失敗すると薬が体に入っていかないんですけど、そうなったら針を取り替えてもう1回、ということを繰り返しました。自分は注射を打たれる瞬間を見ないタイプなのですが、自分で打つとなると見ないわけにもいきません。今は慣れましたが、手は震えるんです。頑張って、おなかに1、2、3で打ちます」(石澤)
佐藤医師は「ちょっとした打撲などでは出血せずに日常生活を安心して送れるように管理するのが私たちの仕事」という。
「大事なことは、日常生活で常に不安を抱えながら暮らす必要はないということです。心配事をゼロにすることはできませんが、注射による治療で管理していくということが行われています。それは蓮君も同じ。基本的にはやりたいというスポーツに対して、『ダメだよ』というスタンスはあまりとっていません。さすがにボクシングやラグビー、柔道といったコンタクトスポーツは難しいですが、野球やサッカーであれば、『やってはダメではなく』、どうやったらできるかを一緒に考える。あんなに野球が大好きなのに、蓮君に野球をやるな、なんて言えません」(佐藤医師)
■高校入学2週間で両足に激痛
高校は2020年に開校し、男子硬式野球部が創部された東松島市の日本ウェルネス宮城を選んだ。金子監督は長く仙台南シニアを指揮し、石澤は総監督として指導を受けた。
「中学の時に金子監督から教わり、上手くなれました。小学生の時は引っ張りの打球しか打てなかったんですけど、逆方向への打球やライナー性の打球が増え、飛距離も伸びました。金子監督がウェルネスの監督になったので、高校でもっと教わりたいなと思いました」(石澤)
2期生として入学し、柴田町の実家を離れて入寮。自己注射療法を続けながら、夢と希望を持って高校野球をスタートさせた。
ところが、入学して2週間ほどが経ったある夜、体に異変が生じた。寮の風呂を上がり、脱衣所に向かう時、段差をまたごうとしたら両足の膝から下に激痛が走ったのだ。
「例えると変かもしれませんが、全方向からクギを打たれているような痛みでした。両足で立っている感覚もなくて、膝から下の足がないような感じ。なんで、立てているんだろう、という感じでした」
部屋があるのは2階。「気合いで階段を上りました」。チームメイトにも指導者にも、家族にも伝えなかった。1学年上の1期生は20人に満たず、石澤ら2期生も大会でベンチ入りできるチャンスがあった。「この時はベンチに入りたい一心でやっていたので」と、一晩を耐えた。
翌朝も痛みはあったが、午前中には落ち着いた。「やっぱり、大丈夫だったな」。そう思ったが、3階の教室から1階の食堂に向かうために階段を降りようとした1段目で足の感覚を感じなかった。「ちょっとトイレに行く」。仲間にはそう告げて時間を開けた。手すりにすがり、足元を見ながら階段を降りて保健室に向かった。母・亜紀さんに迎えにきてもらい、支えられながら車に乗り込み、こども病院へ。車椅子に乗って診察を受けると即入院となり、連日の検査が始まった。
「朝から晩までいろんな検査をして。採血も1日に3回とか。手が真っ白になっちゃいました」(石澤)
さまざまな検査をしたが、原因は分からなかった。「今も分からないんです」と石澤。佐藤医師もこう話す。
「経過を見ていく必要があり、私たちとしては、こちらの症状の診療も続けていきたいと思っています」
■3年生を前に「諦めようかな」
約2週間の入院で原因ははっきりしなかったが、「感覚がなくても歩けちゃう」ようにはなっていた。5月の再入院後、グラウンドで立っていられるのは長くて30分。休憩をしながらできる練習をやり、夏の大会が始まる2週間ほど前には動けるようになった。その時も両足の膝から下の感覚はなかったが、背番号13でベンチ入りした。
秋に再び状態が落ちた。「また歩けない、というところから始まって」。練習を見学する日々を送っていた時、転機があった。バレーボールをしている姉が通っていた整体の施術で両足の膝下から足首までの感覚が戻ったのだ。
「びっくりしました。感覚が戻って、めちゃくちゃ嬉しかったです」(石澤)
左投げの石澤はファーストを守っていたが、「体に負担をかけないようにしないといけないし、ランナーと接触する可能性などもありますから」と、金子監督は外野にコンバートした。2年生は順調で春は背番号13、夏は背番号14でベンチ入りし、試合にも出場。秋には背番号9で5番を担った。
2年生のシーズンを駆け抜けたが、秋の県大会後の練習試合で右足の太ももに死球を受けた。一塁に向かう時に足の感覚がなくなった。おんぶしてもらってベンチに下がり、病院へ。この時は入院しなかったが、右の腰から下の感覚がなく、復帰まで2ヶ月ほどかかった。間もなく3年生という2月末にも体調を崩した。「この時は精神的に参ってしまって」と母・亜紀さん。
「諦め…、諦めがついたというか。諦めようかなって思いました。もう、いいやって。2年間をたどってみると、春の大会までに復帰するのは無理。この時は両足だったので、戻れても夏は間に合わないだろうって思ったんです」(石澤)
自分の体のことは分かっている。症状と復帰までの過程で計算が立ち、高校最後の夏を戦っている自身の姿を想像することができなかった。
野球も、学校も辞める。そこまで考えた。だが、母は言った。
辞めるのは簡単。自分の体が一番だけど、体が回復してきた時に辞めなければよかったと後悔しない? 蓮が後悔をしないんだったら、いいよ――。
石澤はもう一度、これまでを振り返り、考え直した。
「親に恩返しができるのは野球をやっている姿を見せることかなって思ったんです。お母さんの言葉を信じて、ワンチャンスにかけて、またやろうと思いました」(石澤)
病院まで送ってくれるなどした中村春輝部長も毎日のように連絡をくれていた。
「中村先生からもいろんな言葉をもらい、やろう、って決めました」(石澤)
また、昨夏の甲子園で初優勝した仙台育英の岩崎生弥さん(現東北学院大)の存在も励みになったという。岩崎さんは高校2年の6月から逆流性食道炎や運動誘発喘息と約1年闘い、昨夏の甲子園からベンチ入り。代打で結果を出し、準々決勝からスタメンをつかむと、決勝では満塁弾を放った。
「仙台育英の甲子園の動画を見ていた時、そういえば、岩崎選手も病気だったのに甲子園から出てホームランも打ったなって思い出して。まだ、諦めなければできるんじゃないか。チャンスがあるんじゃないかって思いました」(石澤)
約2ヶ月の自宅療養を経て、新学期を迎えるタイミングで戻った。
■一振りに懸けろ
チームに帰ってきた石澤に金子監督は告げた。
「スタメンでは使わない。お前は大事な時に代打で出て、一球で仕留めろ。一振りに懸けるような練習をしなさい」
金子監督は体への負担を考えると、1試合にフルで出場するのは難しいと考えていた。当然、石澤はスタメンを目指して復帰した。そう言われた時、ショックはあったが、「まだ選手として見てくれているんだ」と感じ、受け入れた。「早く戻って来い」と常に気にかけてくれていたチームメイトからの「まだ自分を選手として思ってくれている言葉」も嬉しくて、やる気が満ちてきた。
個人練習で徐々に体を作り、春の県大会後から全体練習に入った。練習試合では、1試合目は代打で登場し、2試合目は指名打者(DH)で打席を重ねる。金子監督は「今、すごいの」と笑う。
「代打で出ると必ず打つんですよ。パチーンと仕留める。集中力が増しているんじゃないかな」
石澤も「自分でもびっくりするくらい当たっちゃって」と頭をかく。
「最高の結果を出すためにベンチから相手ピッチャーを観察したり、自分のタイミングでアップをはじめたりして、確かに、以前よりも集中して打席に入っていけるようになっていると思います。また、スタメンで出ている人たちが情報を共有してくれるので、それも頭に入れながらやっています。自分は緊張するタイプなので、情報があることで気持ちがほぐれてプレーすることができています」
指揮官は「最近はあまりにも打つものだから、守備の練習もしておけよ、なんて言って」と苦笑する。ここぞの代打の切り札か、スタメンか――。起用を迷わせるほど、結果を出している。
中学からチームメイトの笹村航太主将(3年)は「ベンチ入りを決める紅白戦でも3安打して、すげぇなって思いました。毎日、練習してきた俺らが打てないのに(笑)。蓮はセンスもありますけど、やっぱり、努力がすごいなと思います」と称える。同じく仙台南シニアから一緒の新妻斗碧(3年)は寮の同部屋で、素振りも一緒にやってきた仲。「蓮はいじられキャラで、お菓子を食べている時はめっちゃ嬉しそうに食べています(笑)。野球では休んでいる期間も多かったのに、打っていてすごい。大会でもめっちゃ打ってほしいです」と期待する。
■「いいスポーツに出合えた」
6月18日の練習試合。代打のあの打席で走者をかえすことはできなかったが、初球のストライクを打ちにいきながら見送る目線に打撃センスを感じさせた。バットを振れば力みもクセもなく、コースに逆らわずに打球を飛ばす。
その試合後、石澤が言った。
「今も、実は足首から下の感覚があまりないんです。この2年半、そうだったので、今は慣れてやっているんですけど。よく考えると、自分でもなんでバットを振れているんだろう、って思います」
ウォーミングアップもキャッチボールも、バッターボックスから打って一塁に走る様子からも、そんなことは微塵も感じさせなかった。他の選手と動きは変わらず、いち野球選手であった。その自然な動作には、持病に屈せず、やりたいことに挑戦し、立ち向かってきた逞しさが詰まっているように見える。
「野球は簡単ではなく、難しい。考えて、いろんなことを試して、それでやっとできる。何百回、何千回と練習してやっとできるワンプレーが最高です。いいスポーツに出合えたなって思っています」
リスクと隣り合わせの野球人生だが、「もう、野球が大好きなんです」と父・聡さん。打席では、常に死球を避ける意識を持ってきた。特に、頭部への死球は通院のたびに注意喚起されてきた。それでも、本塁寄りのラインのギリギリに立ち、投手と対峙。危機感は持ちながらも、コースの見極めや内角球の捌きも練習して体に染み込ませてきた。「かすってのデッドボールはありましたが、あとは避けられたので」と石澤。中学から6年間、ともにプレーしてきた笹村主将も新妻もまともにくらった死球を見たのは昨年9月が初めてだった。自打球も「気にしていたら打席には立てないので」と割り切り、恐れることなく、バットを振ってきた。
高校で野球に打ち込めた時間は短かった。練習の見学も公式戦の応援も、正直に明かせば耐え難かった。だが、高校野球最後の夏にたどり着いた。父・聡さんが「中学まではバンバン野球をやれていたんですけどね。この夏は試合に出ても出なくても、グラウンドにいてくれれば」と言えば、「蓮が野球をやっていてよかったと納得してほしいなと思います」と母・亜紀さん。やや間を置いて、「あの時、辞めなくてよかったと思ってもらえたら」と思いを馳せた。
「どうすればできるのかを一緒に考える」というスタンスで治療に当たってきた主治医の佐藤医師は「いろんな葛藤の中で頑張ってきたと推察します。出血予防の管理としては十分とは言えない部分があるため、ハラハラ感はずっとありましたが、3年生の夏まで来ることができた。蓮君がやりたいと思っていることをやってくることができたのはよかったことだと思っています。悔いのないようにバットを振ってほしいなと思います」とエールを送る。
日本ウェルネス宮城は8日に石巻と対戦する。仙台市民球場で14時プレーボール予定だ。
(雨天順延により、9日になった。会場と開始予定時刻はそのまま)
一週間を切ったタイミングでグラウンドを訪ねた。石澤は「春はベンチに入ることができませんでしたが、夏は頑張って入ることができました。そういう意味では大会が楽しみです。ただ、戻ってこられた喜びもありますが、ちょっと緊張している部分もあって、まだ気持ちはフワフワしている状態です」と心境を語った。
代打かスタメンか、途中出場か。どんな役割でもまっとうしようと決めている。
「今でも、スタメンで出ることもまだ諦めていないので。スタメンで出ろと言われてもできる準備もしてきました。代打だったらいつも通りに役割を果たそうと思っています。いろんな人に支えてもらい、チームの監督、コーチ、選手たちが理解してくれてやりやすい環境でした。練習や学校を休んでもチームの輪から外れることなくやってこられたのはみんなのおかげ。すごく感謝しています。親にも迷惑をかけてきたので、最後まで全力でプレーすることが恩返しになると思っています」