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中宮・定子の死後に宮廷から去り、清少納言はどのような晩年を送ったのか?

歴ブロ歴史の探求者

一条天皇の皇后・定子に仕え『枕草子』を執筆した平安時代の有名女性作家・清少納言。宮廷で定子と共に華やかな毎日を送っていましたが、定子が若くして亡くなると女房を退職したといわれています。

定子死後の清少納言の足取りはハッキリとした記録がありませんが、今回は清少納言の退職後の足取りについて紹介します。

再婚相手のところに身を寄せていた

定子に仕える前に橘則光と結婚し男子を出産しますが、宮中に仕えるようになった数年後に離別します。そして、父・清原元輔の友人でもある藤原棟世と再婚して娘が生まれました。定子が亡くなると、藤原棟世の赴任先である摂津に身を寄せて『枕草子』に手を加えていたと言われています。

夫の死後は父ゆかりの地で過ごしました。屋敷の近くには定子の墓所があり、彼女の冥福を祈りながら過ごしていたのかもしれませんね。

紫式部の同僚たちとの交流

ひっそりと寂しい余生を過ごしていたかと思えばそうでもなく、赤染衛門や和泉式部と言った中宮・彰子に仕えた女房達と交流していました。

赤染衛門の和歌の詞書(ことばがき)に清少納言について書かれた文章があります。詞書とは和歌の書いた動機・主題・成立事情が書かれたもので、そこには『元輔が昔住みける家の傍らに、清少納言住し頃、雪のつみしく降りて、隔ての垣もなく倒れて見わたされしに』と書かれています。

ハッキリした場所は書かれていませんが、清少納言の父親が住んでいた家のそばで暮らしていたと書かれています。諸説ありますが、住んでいた場所については京都の東山月輪とも言われており、その近くの泉涌寺というお寺に清少納言の供養塔や歌碑が残されているそうです。

また、和泉式部の和歌に清少納言とのやり取りがあります。

稀にても 君が口より伝へずば 説きける法(のり)に いつかあふべき

清少納言から和泉式部へ海苔のプレゼントがされ、そのお礼に和歌を送ったとされています。二人はプレゼントのやり取りをするくらいの仲だった事が伺えます。

清少納言の晩年は落ちぶれていたのか?

古事談の清少納言の荒れ果てた屋敷を見て悪口を言った男に対して怒鳴り散らした話や、無名草子の田舎に住みツギハギだらけのボロを着て、女房時代を懐かしむなどと落ちぶれたように書かれています。しかし、上記の史料は鎌倉時代に書かれた物で、史実なのかは疑問が残ります。

また、清少納言には橘則光との間の息子・橘則長と再婚相手・藤原棟世との娘・小馬命婦がいました。特に小馬命婦は中宮・彰子の女房として出世しており、和泉式部や赤染衛門とも交流があった事から宮廷とのつながりは全くなかったわけではないと考えます。

そのため、以前のような暮らしはしていないが、生活に困らない程度には暮らしていたように思えます。

あれほど清少納言が推していた定子様ですから、きっと彼女が埋葬された近くで楽しき日々を思いながら静かな余生を暮らしていたのではないのでしょうか。

歴史の探求者

歴史好きが講じて歴史ブログを運営して約10年。暗記教科であまり好きでないと言う人も少なくないはずです。楽しく分かりやすく歴史を紹介していければと思います。歴史好きはもちろんあまり好きではない人も楽しめるような内容をお届けします。

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