子どもの貧困 「昔のほうが大変だった」への対処法
子どもに責任はない
子どもの貧困は、大人の貧困に比べて、広い理解を得やすい。
一番の理由は「自己責任」と言われないこと。
大人だと、どうしても「そうなる前になんとかできたはず」と言われるが、子どもの場合は言われない。
「親が悪い」とは言われるが、それも親を選べない子の責任にはならない。
大人の貧困に比べて、批判を受けにくく、共感を得やすいテーマと言える。
影響力ある「昔のほうが大変だった」
ただ、代わりに言われることがある。
「昔のほうが大変だった」ということ。
これは、特に高齢の、特に男性から言われることが多い。
そしてこの方たちが地域や社会で力をもっている(地方議員や自治会長など)。
子どもの貧困対策を進める上では、この方たちにも理解してもらう必要があるが、そのためには「昔のほうが大変だった」というこの言い方に向き合う必要がある。
どう受け止め、なんと返せばいいのか。
背景としての高度経済成長
まずは、このイメージ図から見ていただきたい。
横軸は年代、縦軸は所得や生活水準を示している。
よく知られているように、日本は戦後の焼け野原から、1960年代の高度経済成長をへて先進国の仲間入りをし、バブル崩壊以降「失われた20年」とも言われる経済的な停滞を経験してきた。
特に高度経済成長は、一般市民の暮らしを劇的に変化させた。
それはスマホ普及の比ではない。
イメージ図は、その様子を示している。
相対的に落ち込んでしまっている子どもたち
そして現代の子どもの貧困は、この高度に発達した日本社会で、暮らしぶりが相対的に落ち込んでしまっている子どもたちの問題としてある。所得の中央値の半分以下が相対的貧困状態だ。
平均的な暮らしをしている人たちから見れば、その子たちの状況は、上から谷間をのぞきこむような感覚になるだろう。
「生ぬるい」貧困
しかし、私たちの社会には、まだ高度経済成長期前の記憶をもつ方たちがご健在だ。
私は1969年生まれの47歳で、物心ついたときには、すでに冷蔵庫・洗濯機・炊飯器に囲まれていた。
しかし、私より10歳以上年上の人たちは、まだそうした物もなく、日本全体がまだまだ貧しかった時代の記憶を自身の幼少期の記憶として持っている。
その方たちから見ると、相対的には落ち込んでいる子どもたちの抱える問題も、まだまだ「生ぬるい」。
「修学旅行に行けない」と言われても「それで死ぬわけじゃない」。
「大学に進学できない」と言われても「自分は中卒で働いた」。
靴をはいて、ランドセル背負って、学校に通えていて「何で貧困なのか」と。
否定し合う関係からは何も生まれない
子どもの貧困に関心を寄せ、取り組んでいる人たちからすると、それは、貧困の子どもたちの苦しさを否定する言い方のように聞こえるだろう。
「でも、修学旅行いけないのもとても大変なんです」「でも、大学に行けないと生涯賃金はこんなに違ってしまうんです」と、穏やかにだが反論したくなる気持ちが生まれると思う。
しかし「でも~」で始めてしまうと、今度は相手が否定された気持ちを抱くことになる。
今の子どもたちの貧困を認めることが、何か自分の幼少期の苦労を置き去りにすることになるような、そんな感覚を万が一にも持たれてしまっては、関心を寄せ、耳を傾けてもらうことは難しくなる。
否定し合う関係に入ってしまうと、目線を合わせて同じ方向を向くことは難しくなる。「否定された感」から反発が生まれることさえあるかもしれない。
「ウチの地域にそんな子はいない!」などと言われてしまったら、それによって不利益をこうむるのは子どもたちだ。
コトは感情の取り扱いにかかっている
「昔のほうが大変だった」が、どこまで事実に即しているかは、この場合重要ではない。
重要なのは、この力をもつ人たちが理解してくれないと、子どもの貧困対策の進まない場合があるという事実のほうだ。
コトは「感情」の取り扱いにかかっている。
私たちは相談者に対するとき、感情的なひっかかりを取り除いて初めてこちらのメッセージが入っていくという事実があるのを知っている。
それと同じだ。
その人たちも悪意があって言うわけではない。今の子どもたちの大変さを否定したいのではなく、自分の幼少期の苦労を、自らの人生の一部として尊重して欲しいというだけだ。
「昔のほうが大変だった」という言い方を受け入れると、今の子どもたちの大変さを否定することになるという受け止めは、論理的には正しいかもしれないが、感情的には正しくない。
「昔のほうが大変だった」と言いたくなる気持ちを受け止められれば、その気持ちがあった場所にこちらのメッセージを受け止めてくれるスペースが生まれる。
力を込めて肯定しよう
だから「おっしゃるとおり!昔のほうが大変でしたよね!!」と力を込めて肯定するのがいい。
自分たちのほうが大変だったと認められれば、その部分のひっかかりが取れ、他のことを聞き入れるスペース(気持ちの余裕)が生まれる。
その空いたスペースに向けて、
「その上で、今、相対的に落ち込んでしまっている子どもたちの問題も考えていきたい」
「その子たちがこれからの日本の将来をしょって立つ」
「その子たちががんばれなければ、私たち自身の老後も立ちゆかない」
と投げかければ、そのメッセージが入っていく可能性が高まる。
わかりやすく、非の打ちどころのない貧困
このことが重要なのは、このひっかかりが取れないと、反発を受けまいとする配慮が新たな「ゆがみ」を生じさせるからだ。
たとえばマスコミには、「昔のほうが大変だった」という反応を招かないように、より厳しい子どもを取り上げようとする誘因が働く。
高度経済成長期前の記憶をもつ人たちにも共感してもらおうと思えば、非常にわかりやすい貧困、非の打ちどころのない貧困、絶対的貧困を取り上げたほうがよい、となるためだ。
結果として、メディアに登場する貧困の子どもたちは「食べるものがなく、ティッシュを舐めて甘いと言った」というような、厳しい中でもかなり厳しい、極限状態の子どもたちが多くなっていく。
「落とし穴」に気をつけたい
ただ、これには「落とし穴」もある。
というのも、反発を受けにくい、より分かりやすい貧困、非の打ちどころのない貧困、絶対的貧困にフォーカスしすぎると、相対的に落ち込んでしまっている多くの子どもたちの姿が、より一層見えにくくなっていってしまうからだ。
「子どもの貧困」と聞いたときに、人々の頭に思い浮かぶのがそうした厳しい上にも厳しい子どもたちのことになってしまい、実際に多くいる「そこまではいかないが、相対的に落ち込んでしまっている」子どもたちの姿が、より見えにくくなってしまう。
相対的貧困は貧困ではない?
しかし、6人に1人と言われる貧困状態の子どもたちの中で、実際に多数を占めるのは、この子どもたちだ。
厳しい中にも厳しい、非の打ちどころのない貧困、絶対的貧困の子どもたちは、実数としては多くない。
結果として、
「枕詞のように6人に1人と言われるが、本当にそんなにいるのか?」
「途上国のようにストリートチルドレンがいるわけじゃない」
「アフリカの難民キャンプのように、おなかの膨れ上がった栄養失調の子どもたちがそんなにいるわけじゃないだろう」
という逆転した反応を呼び込んでしまう。
ひいては「相対的貧困の子は貧困ではない」という反応にも結び付きかねない。
「生ぬるい」との批判を回避しようとするあまり、相対的貧困の子を不可視化してしまうという倒錯した結果を、意図せずしてもたらしてしまう。
「昔のほうが大変だった」という言い方にうまく向き合えない結果として、ある種の「罠」にはまりこんでしまう。
だからまずは共感することが必要だ。共感してもらうために。
目線を合わせよう
子どもの貧困は、幸いにも多くの人たちの注目を集めている。
なんとかしようという社会の機運も高まっている。
「昔のほうが大変だった」と感じる人たちの理解と協力も得られれば、さらに進展していくだろう。
そうして世の中の合意形成が進んでいけば、イギリスのように子どもの貧困率を減らしていくことも夢ではない。
それを言いたくなる人たちの気持ちに向き合い、丁寧に解きほぐし、目線を合わせていきたい。
それが子どもたちの利益、ひいては私たち社会全体の利益となるから。