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剣豪の宮本武蔵は、兵庫県高砂市の誕生で間違いないのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
宮本武蔵。(提供:アフロ)

 現在、我が国では戸籍制度があるので、出生を届ければ、出生地がわからないということはない。しかし、戦国時代には戸籍制度がなかったので、ある戦国武将がどこで生まれたのか論争になることは珍しくない。宮本武蔵もその1人なので、その出生地について考えてみよう。

 宮本武蔵の出生地は、決定的な史料がないために、今も大きな論争となっている。武蔵の出身地は大別すると、美作と播磨の2説が有力である。今回は、播磨説を検討することにしよう。

 現在、播磨における武蔵の出生地の有力な候補としては、播磨国印南郡河南庄米田村(兵庫県高砂市米田町米田)がある。播磨国米田村生誕説の根拠となるのは、『泊神社棟札』である。

 この棟札は、武蔵の養子で豊前小笠原藩筆頭家老を務めていた伊織が、承応2年(1653)に故郷の氏神・泊大明神(兵庫県加古川市)の社殿を改修したときに奉納したものである。武蔵没後の比較的早い段階に成立した史料であり、信頼がおけると考えられている。

 この棟札には、武蔵が伊織の実家・赤松春日部家の流れを汲む田原家の一族であり、筑前秋月城滞在中に新免某と知り合い、その遺言によって新免姓を名乗ったと書かれている。

 ところが、この棟札の冒頭にある村上源氏の流れを汲む赤松氏(春日部家)の子孫であるという書き方は、顕彰の意味合いが強く、必ずしも事実を記したとは言いえないだろう。裏付けとなる一次史料がないのだ。

 田原家が赤松春日家の系譜を引く根拠史料としては、「宮本家系図」や永享12年3月12日付足利義教御判御教書(岡山県立博物館所蔵「赤松春日部家文書」)がある。

 「赤松春日部家文書」は、赤松春日部家の教貞が将軍足利義教から播磨国米田村などを宛がわれたことを示している。この史料は、地元の新聞でも大きく報道されたが、内容は知行を宛がっただけで、田原家が春日部家の流れを示すものではない。

 つまり、武蔵の出生地が播磨国印南郡河南庄米田村であるという説は、ただちに正しいとはいえないのである。

 武蔵の出自を考える際、多く用いられるのは後世の編纂物や系図の類である。こうした史料は、それぞれの意図に基づいており信が置けない。今回は一次史料の「赤松春日部家文書」を根拠としたが、まったくのこじつけで証明されたことにならないのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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