鉄道での「中国大返し」は何日で可能か 大軍勢の移動、鍵は輸送力の小さい吉備線、本数少ない東海道線
中国大返しによる山崎での決戦は本能寺の変から11日後の出来事
NHK総合テレビで放送されている大河ドラマ「どうする家康」の2023(令和5)年7月30日分は「伊賀を越えろ!」であった。内容は、天正10年6月2日に起きた本能寺の変の後、徳川家康がわずかな人数で伊賀の山を越えて命からがら三河に帰還したというものだ。ドラマでは、いまの岡山県岡山市北区の備中高松城に出陣していた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の軍勢が主君である織田信長の敵を討つため、甲冑を着けたまま走っていまの京都府大山崎町(おおやまざきちょう)の山崎を目指す姿が描かれていた。世に言う中国大返し(ちゅうごくおおがえし)である。
大山崎町のホームページにある「秀吉の中国大返し」によると、秀吉の軍勢は天正10年6月6日に備中高松城を出発し、6月8日には姫路城に到着したという。ここで1日休息した後、6月10日はいまの兵庫県尼崎市に到着し、軍勢を整えた後、6月13日には山崎に入って決戦に臨んだらしい。
秀吉の軍勢が6月6日から13日までの8日間で移動した距離を鉄道を基準に示しておこう。JR西日本吉備線の備中高松駅から同社の山陽新幹線岡山駅、JR東海東海道新幹線の新大阪駅を経由し、JR西日本東海道線の山崎駅までの216.2kmとなる。
本能寺の変から441年後の今日、備中高松城から山崎の決戦の場までどのくらいの時間で到達できるであろうか。今回、筆者が専門としている鉄道の時刻をもとに、鉄道を利用した場合、秀吉の軍勢がどの程度の時間で中国大返しできるのかシミュレーションしてみようと思う。
中国大返しにはいまなお謎が多く、秀吉が6月6日の何時に出発したのかがよくわかっていない。そもそも6月6日ではないという説もあり、余計に混乱する。話を先に進めるためにここは6月6日の朝8時ちょうどに出発したと仮定しよう。
現代ならば備中高松城から山崎まで半日で着いてしまうが……
備中高松城から10分ほど歩けば備中高松駅に着く。午前8時00分に備中高松城を出発すると、この駅を8時31分に出発する岡山行きの普通列車に乗ることができる。この列車に終点の岡山駅まで乗り、到着は8時52分だ。岡山駅からは山陽新幹線を利用する。この駅始発となる9時06分発の「のぞみ88号」東京行きが接続し、新大阪駅には49分後の9時55分の到着だ。
新大阪駅で今度はJR西日本東海道線の快速電車に乗り換える。10時13分発の野洲(やす)行きが接続していて、山崎駅に10時35分に着く。さすがに現代は移動時間が短い。その日のうちどころか午前中いっぱいすらかからずに着いてしまう。山崎駅に降り立った秀吉の軍勢は食事や休憩を取った後、午後からの光秀の軍勢との戦いに備えることができる――。
ここでいまいちど考えていただきたい。秀吉の軍勢は約2万人から約3万人であったと言われる。最大に見積もって3万人であったとしよう。鉄道が使えるとはいえ、これだけの人数を移動させなくてはならないのだ。特に吉備線は1本当たりの列車の定員は少なく、その本数も少ない。それから、武器や甲冑を携えたまま旅客列車に乗るのは難しいので、その旨を別に手配する必要がある。当然、貨物列車の手配が必要だ。
以上を踏まえ、6月6日の朝8時ちょうどに備中高松城を出発したとして、3万の軍勢全員がいつ山崎の決戦の場に臨むことができるのかを探ってみよう。前提として2023年6月6日に運転されていた列車を利用するものとして、特にチャーター列車は設定しない。どの列車も秀吉の軍勢が利用する際には空車で、定員いっぱいまで乗車できるとして計算してみた。
3万人の軍勢の移動に輸送力の小さい吉備線は最大のネック
国土交通省が公表した2020(令和2)年度の「都市鉄道の混雑率調査結果」の「資料4 JRにおける各区間の混雑の見える化」には、吉備線備中高松駅から岡山駅までの間で朝6時30分から9時30分までの通勤列車の混雑状況が1時間ごとに記されている。該当する朝8時30分から9時30分まではディーゼルカーを2両連結した列車が2本運行されており、定員は合計496人のところ319人が乗車したという。混雑率は64パーセントで、1列車当たりの定員は248人となる。
吉備線を走る列車1本当たりの定員はすべて248人と仮定すると、秀吉の軍勢3万人は121回に分かれて乗車しなくてはならない。8時31分発の列車の後に備中高松駅から岡山駅に向かう列車の本数は22本であるから、当日中に移動可能な人数は(1本+22本)×248人で5704人である。
備中高松駅から岡山駅に向かう列車の本数は1日30本(うち1本は土・休日運休)だ。つまり、翌6月7日に移動できる秀吉の軍勢は30本×248人の7440人となる。このペースで移動するとなると、最後の3万人目の出発は6月10日の朝8番目の列車だ。この日は土曜日で、平日であればこの駅を朝4番目の7時01分に出発する列車は土・休日運休なので運行されない。朝8番目の列車は備中高松駅8時59分発、岡山駅9時18分着となる。
6月6日を含めて5日間で3万人の軍勢が岡山駅にたどり着いたことになるのだが、進軍があまりに遅いと秀吉の雷が落ちるのは容易に想像できるであろう。備中高松駅から岡山駅までの距離は11.0kmに過ぎない。徒歩でも時速4kmで進めると仮定すると、備中高松駅から岡山駅までは2時間45分、これに備中高松城から備中高松駅までの10分を足しても3時間あれば移動できてしまう。
実際のところ、3万人がいっせいに歩いたとしても岡山駅では大変な混雑となって山陽新幹線の列車にスムーズには乗れない。岡山駅を出発する山陽新幹線の列車の時刻、そして定員に合わせて順次出発していくとよいであろう。もちろん、その間にも吉備線の列車は走っているのだから、こちらも活用すべきだ。
ここからはあまり詳細に説明すると歴史への興味が薄れてしまいそうなので、簡単に記しておこう。第一陣となる248人が乗った備中高松駅8時31分発の吉備線の列車は岡山駅に8時52分に着く。吉備線と山陽新幹線との乗り換え標準時間は交通新聞社発行の「JR時刻表」によれば8分とのことだが、何しろ人数が多いので2倍の16分で計算したい。すると、岡山駅9時20分発の「のぞみ8号」に接続し、新大阪駅には10時04分に到着する。
新大阪駅では東海道線快速電車で山崎駅を目指す。例によって標準的な乗り換え時間は10分であったから、2倍の20分としておこう。となると10時28分発の快速電車に乗り換え可能となり、山崎駅には10時50分に到着となる。
徒歩で岡山駅を目指した軍勢も合わせると、秀吉の軍勢が利用する山陽新幹線の時間帯別の本数は次のとおりだ。9時台が2本(「のぞみ」「ひかり」各1本)、10時台が2本(「みずほ」「さくら」各1本)、11時台から13時台までが6本で内訳は11時台と13時台とが「のぞみ」3本、「ひかり」「みずほ」「さくら」が各1本、12時台が「のぞみ」3本、「ひかり」1本、「さくら」2本である。14時台は5本で「のぞみ」3本、「ひかり」「さくら」が各1本、15時台は4本で「のぞみ」2本、「ひかり」「さくら」が各1本だ。結果として、15時36分発の「ひかり518号」で全員が乗車となる。まとめると、秀吉の軍勢が利用した山陽新幹線の列車の本数は31本で、内訳は「のぞみ」15本、「ひかり」6本、「みずほ」3本、「さくら」7本だ。
新大阪駅からの東海道線も3万人の軍勢の移動は困難
新大阪駅に到着したら東海道線の快速に乗り換える。列車1本当たりの定員は『2019(令和1)年版 都市・地域交通年報』(運輸総合研究所編)によると2017(平成29)年度は新快速を含めて1433人だ。「のぞみ」「ひかり」の1319人よりも多いのでスムーズに乗り換えられると思ったが、残念ながらそうはいかない。山崎駅に停車するのは日中に15分間隔で運転されている快速だけで、停車駅の少ない新快速は通過なのだ。一方で秀吉の軍勢は1時間に最大で6本の列車で山陽新幹線の新大阪駅に降り立つから積み残しが出てしまう。
やむなく新大阪駅で待つべきかと考えたが、ここでも再び秀吉の雷が落ちそうだ。そこで、一部は新快速も停車する高槻駅まで乗り、ここから7.5km先の山崎駅を徒歩で目指すこととする。移動時間は2時間と考えた。なお、新大阪駅からの東海道線には各駅に停車する普通も運転されているが、残念ながら日中の時間帯は高槻駅までしか行かない。快速と新快速とで対処することにしよう。
簡潔に説明すると、秀吉の軍勢で最後に新大阪駅に着くのは16時46分着の「ひかり516号」を利用した1319人だ。17時28分発の米原行きの快速に乗り換え、山崎駅には17時51分に到着して人間の移動は完了する。
高槻駅から山崎駅まで徒歩での移動を強いられた人数は5595人だ。3万人のうち19パーセントなので、残る81パーセントの2万4405人は鉄道を利用できた。この点がわずか7パーセントの2232人しか鉄道を利用できなかった備中高松-岡山間とは異なる。
徒歩で移動した5595人の内訳は、新大阪12時43分着の「のぞみ20号」で着いた1319人、12時59分に「さくら546号」で着いた546人、13時43分に「のぞみ24号」で着いた1319人、13時59分に「さくら550号」で着いた546人、14時43分に「のぞみ28号」で着いた1319人、14時59分に「さくら552号」で着いた546人だ。「さくら552号」の546人は15時20分発の新快速に乗り換え、高槻駅に15時30分に到着したら歩き出す。山崎駅には17時30分には着くであろうから、鉄道を利用した最終組の17時51分着よりは早い。
コンテナ貨物列車3本でようやく装備や物資の輸送が可能に
今度は装備や食料の輸送に触れておこう。等身大の鎧や兜を現代も製造し、大リーグ、ロサンゼルス・エンゼルスにも兜を提供しているサムライストアによると、収納時で高さ55cm、幅45cm、奥行42cmだという。大ざっぱに容積を求めると0.1立方mとなる。したがって3万人分の鎧や兜の容積は3000立方mだ。貨物列車で使用される最も一般的な12フィート5トンコンテナの容積は18.5立方m前後、外方寸法は長さ3.715m、幅2.45m、高さ2.5mで、きりのよい数値として18立方mと計算すると167個必要となる。
ほかにも刀や槍、鉄砲、さらには食料なども運ばなくてはならない。筆者には専門外なので容積の見当も付かないが、これらも合わせて鎧や兜と同じ12フィートコンテナ167個分と考えることとしよう。つまり3万人の秀吉の軍勢は合わせて12フィート5トンコンテナ334個分を備中高松駅から山崎駅まで輸送する必要が生じる。
コンテナを輸送するコンテナ貨物列車は1本の列車で12フィート5トンコンテナを最大130個輸送可能だ。したがって、コンテナ貨物列車は少なくとも3本は必要となる。
もう一つ問題があり、備中高松駅、山崎駅ともコンテナ貨物を取り扱っていないのだ。備中高松駅に最も近いコンテナ貨物の取り扱い駅は岡山駅から2.7km西にある山陽線の岡山貨物ターミナル駅で、備中高松駅から13.7kmのところにある。山崎駅から最も近いコンテナ貨物駅は京都駅の西1.8kmにある東海道線の京都貨物駅で山崎駅から12.3kmだ。しかし、当時に当てはめると京都市内には光秀の軍勢が待ち構えていて輸送しづらい。となると、次に近いのは山崎駅の西に19.6km離れた東海道線の吹田貨物ターミナル駅だ。吹田貨物ターミナル駅を通過する貨物列車も多く、もしも通過であれば山崎駅からの距離が次に短い駅を探すこととした。備中高松駅から岡山貨物ターミナル駅、吹田貨物ターミナル駅から山崎駅まではトラックを手配することにしよう。
6月6日の朝8時以降、岡山貨物ターミナル駅に停車してコンテナを取り扱う貨物列車は、9時41分発の百済貨物(くだらかもつ)ターミナル行き第1086列車、11時15分発の東京貨物ターミナル行き第5064列車、12時01分発の大阪貨物ターミナル行き第2084列車だ。各列車の12フィート5トンコンテナの最大積載個数は第1086列車が130個、第5064列車と第2084列車とが120個ずつと合わせて370個となる。
あとは吹田貨物ターミナル駅に列車がやって来るのを待てばよいと言いたいところだが、実はいま挙げた3本のコンテナ貨物列車のうち、第1086列車、第5064列車の2列車はこの駅に停車してもコンテナの積み降ろしを行わない。
第1086列車が貨物の積み降ろしを行う駅で最も山崎駅に近いのは、関西線の百済貨物ターミナル駅で、到着は14時22分だ。この駅は大阪市東住吉区今林3丁目にあり、旅客列車が停車する駅で言うと平野駅と東部市場前駅との間に設けられている。山崎駅までの直線距離は筆者の計測で約31kmだ。
一方、第5064列車が貨物を積み降ろす駅で最も山崎駅に近いのは京都貨物駅で15時21分に到着する。残念ながら、光秀の勢力下にあって貨物を降ろすのは難しい。さらに言うと、この列車が京都貨物駅の次に停車してコンテナ貨物を取り扱うのは静岡市駿河区池田346にある静岡貨物駅なので利用はとても無理だ。そこで、第5064列車の利用をあきらめ、第2084列車の次となる14時03分に岡山貨物ターミナル駅を出発する第2080列車に貨物を運んでもらおう。この列車は第5064列車と同じ120個のコンテナを輸送可能だ。
出発順に説明するとして、第2084列車は吹田貨物ターミナル駅に14時46分に着いて貨物の積み降ろしを行う。なお、第2080列車は例によって吹田貨物ターミナル駅に停車しない。同列車が停車する山崎に最も近い貨物取り扱い駅は大阪府摂津市安威川南町2丁目にある大阪貨物ターミナル駅だ。到着は17時47分で、筆者の計測では山崎駅まで直線で16.9kmであった。
人間の移動とは異なり貨物の輸送には制約が多く、6月6日に出発するとして少なくとも6月5日の昼前までには貨物を岡山貨物ターミナル駅に送っておかなくてはならない。そして、百済貨物ターミナル、吹田貨物ターミナル、大阪貨物ターミナルの各駅に到着した334個のコンテナをトラックに積み替えて山崎駅に運ぶのにも少なくとも24時間は必要だ。
以上から、秀吉の軍勢が山崎に到着し、万全の装備で光秀と決戦に臨むことができるのは6月7日の夕刻と推測される。歴史上では6月13日の決戦であったので、6日間早められた。光秀の天下は3日と言われるので、マイナス3日となってしまう。漢数字で記した三日とは短期間を意味する言葉でもあるので、計算に意味はない。実際に光秀が天下を取っていた期間は13日間であった。あえて言うならば鉄道によって7日天下へと短縮されたのだ。
西南戦争で日本の鉄道は初めて戦争にかかわる
さて、日本に鉄道が開業した1872(明治5)年以降、鉄道は何度か兵士や軍用物資の輸送に携わってきた。その最初の機会は1877(明治10)年2月17日から同年9月24日まで続いた国内最大、そして最後の内戦となった西南戦争である。
当時、国内の鉄道は新橋(後の汐留)-横浜(現在の桜木町)間と京都-神戸間のみであったが、これらの鉄道は兵器や弾薬の輸送に供された。さらに、新橋-横浜間では陸軍省の要請で兵士の移動手段としての役割も担わされる。鉄道を利用した兵士の数は戦争後の復員輸送も含めて約3万人に上ったという。
秀吉の軍勢とほぼ同じ約3万人をおよそ7カ月かけて輸送したのであれば、そう負担は少なかったと思われるが、そうでもない。1877年3月31日の時点で日本の鉄道には客車が160両しか存在せず、しかも1両の定員はせいぜい50人程度と小型であった。このため、多数の臨時列車を走らせるのもなかなか難しく、通常の定期列車を軍用列車に切り換えるケースも多かったそうだ。そのせいで一般の旅客のなかには乗車できない人が多数現れ、混乱が生じた。
西南戦争の戦場となったのは九州で、当時はまだ九州に鉄道は開通していない。新橋-横浜間を鉄道で移動した兵士たちは横浜港から船に乗り、神戸港で乗り換えて九州の各港に向かい、その日数は5日間から7日間であったという。
政府軍と戦った西郷隆盛の軍勢は、予想を上回る速さでやって来た政府軍の兵士たちの姿に驚いたと伝えられている。西郷は自身が創設にかかわった陸軍に滅ぼされた。同様に、日本の近代化のために役立つと鉄道の建設に賛成し、1872年の鉄道開業式当日の祝賀列車では明治天皇が乗車した2号車の隣の3号車に外務卿副島種臣、参議大隈重信、参議板垣退助、左院議長後藤象二郎などと一緒に乗車した鉄道に、西郷は皮肉にも命脈を奪われたのである。