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樋口尚文の千夜千本 第32夜「セッション」(デミアン・チャゼル監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。

観客をむきにさせてしまう映画とは

うっかりしているうちに『セッション』試写が終わってしまい、その時分にはさまざまな評判も聞こえてきたのでそんなに凄いのか早く観たいぞと思っていたらちょうど国際線の機内映画で公開前に上映していたので、この小さな画面で観るのもどうかと思いつつ誘惑に負けて鑑賞したところ、とてもよく出来た、しかも刺激性が強くて味が濃くわかりやすい映画なので、こういうのはちょっとした映画ファンにもとっつきやすいのだろうなとは思ったものの、正直言ってそんなに大向うを唸らせる映画でもないような気がした。

しかしそれはこの機内の小さな画面で観ているからなのかもしれないと思って、念を入れて満員の劇場でちゃんと見直したのだが、感想に変化はなかった。もちろんよくよく考えて構成されている映画なので特に文句はないし、もしもこんな小粒の辛い映画が何の評判も呼ばずにひっそりと公開されたら声高にその存在を喧伝したかもしれないが、巷間に渦巻く毀誉褒貶の饒舌の熱量にふれた後にあっては、特段偏愛の対象にしたいとは思わない映画である。決定的にそう思うのは、本作が作り手の青写真どおりにきっちり計算づくで仕上げられていて、時として映画が生きもののように独り歩きして壊れたり、膨らんだりするスリリングな魅力が感じられなかったからだ。だから、『セッション』に関してはそれ以上もしくは以下の感想もないのだが、映画以上に本作をめぐる”論争”の常軌を逸した盛り上がり方のほうがよほど「想定外」な感じで面白かった。

特に菊地成孔氏と町山智浩氏の”論争”も話題になっていたので、ずいぶん長いなと思いながら読んでみた。私は菊地さんの文章は幾度か読んだことがあるし、ライブもけっこう聴きに行っている。町山さんの文章はこれまであまり読んだことがなく不明を恥ずるばかりだが、お二人の熱のこもった批判と擁護の文章は、正直言って映画『セッション』を観ている時の若干眠い感じに比べれば、ずっとスリリングで面白かった。映画自体に愛着が乏しいせいか、お二人の意見のいずれかに与するわけでもなく、それぞれの論旨に「なるほどなあ」と頷いていたが、ただ一点どうしても腑に落ちないのは文章の内容ではなく、ここまで目利きとされる二人を猛烈に批判や擁護に駆り立てるものがさっぱり判らないという点であった。

しかし、出来がどうこうということとはやや無関係に、観る者をむきにさせる映画というのはある。たとえば日本映画史上最も観客の涙腺を刺激したに違いない『砂の器』という、長年にわたってファンに愛されてきた映画がある。とある酒席で高名な日本映画のロートル評論家が、隣にいた素人のオールドファンに「私は『砂の器』が大好きで・・・」と告白されるや「それは悪趣味ですね!」と吐き捨てるように返すもので、ファン氏はすこぶる不愉快かつ悲しそうな顔をなさっていた。それを目の当たりにした私は、せっかく素朴な映画ファンがいい気持ちになっておしゃべりをしているのに、そんなにむきにならなくてもと気の毒になった。草野球でじゃれていたら、やにわに星一徹が絡んできたような感じであった。

あるいは今度は私がおそらく史上最長の『砂の器』論をもって、あの「泣かせ」のメカニズムを分析してみせたら(こんなことはよほどの愛がないとできないわけであるが)この映画を偏愛する某大学准教授氏が「かかる稀代の名作を嗤う在野の物書きがいる」と何か自分のからだの一部を愚弄されたかのごとき憤慨を露わにしているので絶句した。私は『砂の器』はたとえば『浮雲』や『山椒大夫』のような意味での「名作」とは到底考えにくいけれども、その壊れかけの映画話法にこめられた作り手のたくらみや熱意には(ある観客にとっての『セッション』のように)ついつい惹かれてしまう、ということを愛情とシニスムあい半ばする感じで綴っていたのだが、思考が閉塞硬化した某准教授氏はこんなデリケートなニュアンスなんか解さないで、「名作をバカにした」とかほぼ少年マンガのような単純さでむきになっておられた。

事ほどさように『砂の器』も『セッション』のように、観る人をむきになって批判または擁護させるタイプの映画であった。が、こういう現象は『セッション』や『砂の器』のように多くの観客や批評家、記者によって話題になった場合限定のものなのかといえばそうでもない。私が今もってあれは何事だったのだろうかと思うのは、1978年の前半を通して月刊「シナリオ」誌上で繰り広げられたエキサイティングな”論争”であった。そもそもは同誌巻末に、大林宣彦監督が山根貞男氏による自作『瞳の中の訪問者』の徹底酷評に対する”反論”を手紙形式で寄稿したことに始まる。この長い異論に対して、次の号以降、当の山根貞男氏が激烈に反応し、さらにそこへ山田宏一氏、ひいては蓮實重彦氏までもが参戦し、うっとうしいくらいの熱さと執拗さで論戦が展開された。

これは当初二大怪獣対決の『ゴジラの逆襲』を観ていたら、途中から予告なく『三大怪獣 地球最大の決戦』に巻が変わったようなコーフンを覚えた。しかももはや笑い話だが、私はたまさか中学生の映画小僧で、『HOUSE』を観てびっくりしたが余り、いったい大林監督がどんな演出をしているのか見たくなって、その『瞳の中の訪問者』の日活撮影所での撮影現場に潜り込んでいたこともあって、封切後に観た完成作品の感想を大林監督に長い手紙で送っていたのだった・・・が、なんとその手紙がこの”論争”の発端の大林監督の最初の寄稿で、山根貞男氏への”反証”として引用されているのだった!これが何をかくそう私の”映画批評”が活字になった第一号で、この大怪獣評論家の死闘にミニラとして参戦していたというわけである。

さて期せずして私も当事者になったこの長く執拗な”論戦”は、『セッション』における菊地氏と町山氏のバトルよりも数倍のスリリングさとどえらい迫力と爆笑を醸していたのだが、ここでもやはり首をかしげるのは、その白熱の戦いを勃発させている当の張本人が『瞳の中の訪問者』という映画だということであった。このことの荒唐無稽さたるや、『セッション』や『砂の器』の場合の不思議度の比ではない。注釈しておくが、この東宝映画は手塚治虫の「ブラックジャック」の一話”春一番”を脚色したもので、扮装した宍戸錠が実写のブラックジャックを演じ、片平なぎさの女子大生をめぐるミステリアスな怪事件を解決するというかなり珍妙なる映画で、全篇遊びまくっている大林演出はついにヒョータンツギまで実写で登場させるという、本当にバカバカしさの塊のような作品なのだ(もちろんこれは私としては大肯定の意味である)。そしてさらに日本映画史上、ここまで大御所評論家たちをむきにさせた映画が『瞳の中の訪問者』だったというのは、もはやその映画自体の相当なバカバカしささえ越えた事態であった。

さて、こうしてふりかえってきて、観る者をむきにさせる映画というのはいったい何がそうさせるのだろうかと考える。実は『セッション』を満員の劇場で観た直後、少しそれがわかった気がした。というのも、あの結末部の激しいドラムの高揚の後、隣にいた年に何本も映画を観ていないような感じの若いカップルが「ブラボォ!」と発声してくすぐったい拍手を始めた時、特に作品に恨みはない私のなかの殺意が少しだけ疼いた。

つまり身も蓋もない言い方をすれば明らかに「不出来」ないし「悪趣味」な部分がある作品が過剰な偏愛を集める時(映画も人と同じで「出来のよさ」と「チャーミングさ」は相反することがある)、人はやっきになってそのネガをあげつらったり、かばったりするのだろう。そして、そのネガは疑いようもないものだけに、批判する側も擁護する側もむきになってしまうのだろう(『瞳の中の訪問者』の場合はファンではなくて監督がその自作への偏愛を百人力で披歴したというわけだ)。では『セッション』は明らかなネガがありながら、どうしてそんなに偏愛の対象になるのか、それについては多くの方が語っているのでもはや割愛したい。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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