「何もかも変化した東京が新鮮」 在台日本人が3年ぶりに帰国して気づいたこと
3年ぶりに見た東京
この夏、在台日本人が続々と一時帰国を果たした。筆者もそのひとりである。今回は、3年ぶりの一時帰国を果たした者の目に、今の日本がどう映ったのか、シェアしておきたい。
明らかな変化が起きたのは今年に入ってからだ。とりわけ春以降、日本への入国が緩和され、PCR検査で陰性であれば、行動制限はなくなった。やっと重い扉が開いた、そんな瞬間だった。
春以降、「3年ぶり」というフレーズが飛び交った。SNSには一時帰国を果たした友人が次々と日本での暮らしを投稿し、賑わいを見せた。投稿を見ているうちに、筆者自身、郷愁の念に駆られたことは言うまでもない。
台湾に戻る際の隔離期間が1週間以下になるのを待って、帰国することにした。その日が来ると、台湾で市販されている抗原検査キットと、万一発症した際に備えて台湾政府公認の漢方薬を持参して、日本へ帰国した。
3年ぶりの東京は、大袈裟でもなんでもなく、何もかもが新鮮だった。「進まない」と言われていた電子マネーによる決済やセルフレジ、各駅のホームに設けられた落下防止柵、前回の帰国では見たことのない品の並ぶ商品棚、新しい駅……違いに、ただただ圧倒されていた。数度、少し夜遅い電車に乗った。JRも地下鉄も、驚くほど人が少ない。これがあの東京なのか、と驚かされた。日付が変わる頃に、乗客でふくれあがった電車はついぞ見ることがなかった。
3年という時間の変化を感じるには、十分だった。
この3年弱、得体の知れない疫病に怯えた状況から、まずマスク装着と手洗い消毒が習慣化するに至った。身のこなし方を知り、実行するために必要な時間だったのかもしれない。
国によっては、すでにマスクなしで水際対策もないところもある。感染者数の全数調査は、台湾では重症者数、死亡者数、入境時の感染者数など共に今も連日、数の報告が行われている。2022年9月現在の今に至るまで、連日行われる台湾CDCによる記者会見を通じて、感染症に対するリテラシーは格段に向上した。新型コロナについては、全数よりも、重症化や死者の数字に軸足が移されている。日本では全数調査の継続の是非が話題になっているが、インフルエンザと同じ位置づけにするまでのロードマップが共有されていないためだろうと受け止めた。
「いつでも帰れる」と「帰りたくても帰れない」の差
日本でコロナ禍が一気に本格化したのは2020年2月。国境が閉じられておよそ2年半が過ぎた。筆者は台湾に暮らすようになって丸9年だから、3分の1をコロナで足止めされた格好だ。コロナ前は3か月、半年といったスパンで帰国していたから、いちばん長く日本を離れていたことになる。
筆者だけではない。この間、台湾の友人からも「一時帰国」という単語は聞かないままだった。それまで夏休みや年末年始、長期休暇のたびに往来していたのが幻かと思うほど、行き来はぴたりと止まった。
台湾に来た当初は日本を離れたことに躊躇やためらいはなかったし、台湾に家族や友人もできて寂しさを感じる間はなかった。しかも台湾には日本企業の進出が非常に多く、米から調味料まで日本の商品や食材が手に入りやすい。都市機能や各種インフラも、日本と大差ない。コンパクトだからかえって便利に感じるほどである。
それがどうだろう。コロナ2年目に入ったあたりから「帰りたい」という飢餓感にも似た思いが突き上げるようになっていた。我ながら驚きだった。久しぶりに会った友人からも「意外だね。そんなタイプじゃないと思ってた」と評された。
そんな時期を過ごして、今年8月中旬から9月頭にかけてようやく果たした一時帰国だった。羽田空港に到着した瞬間、思わずため息が出た。
隔離期間が阻んでいた帰国
そもそも、帰りたくても帰れなかった理由は各国が定める隔離期間である。最初は日本に入国して2週間、台湾に戻る際に2週間、合計1か月の隔離が必要とされていた。往来には人数制限が設けられ、飛行機代は上がり、PCR検査も自費。そのうえ隔離中の滞在費用も自費とくれば、経済的に余裕のある人以外は移動できたものではない。「帰るな」と言われたのも同じだった。
ましてやコロナ禍のスタート当初、コロナ発覚と同時に迅速に手を打った台湾は、感染拡大が抑えられており、日本への帰国は高リスクと映った。
「いつ帰れるかな」「まだかかりそうだね」
こんなやりとりが、いつしか在台の友人たちとの決まり文句になった。台湾だけではないだろう。異国で暮らす誰しもが気がかりだったのではないか。
2022年に入って台湾でも新規感染ゼロが続き、日本の感染者数も少しだけ落ち着いて(もしかして…)と思い始めていた矢先に登場したのが、オミクロン株である。日々上昇していく感染者数を横目に、容赦のない落胆に襲われた。
厳しい制限下での帰国事例
往来制限の影響が最も顕著に現れたのが、昨年の国際線新規予約停止の騒動である。オミクロン株の発生を受け、11月29日、国土交通省から航空各社に新規予約の停止要請が入り、12月分の日本に到着する国際便の新規予約がストップ。12月3日には岸田文雄首相自ら会見で、国際線予約停止撤回を表明し、事態は収束に向かった。
頭をよぎったのは、1月に帰国予定の友人である。半年も前に飛行機の予約を済ませ、毎日帰国の準備に追われていると聞いたばかりだった。
帰国の理由は、子どもの高校受験。台湾には「台北日本人学校」といって、戦後台湾に残留した日本人の子どもたちのために1947年に設立された学校がある。小学校、中学校とあり、在台日本人を親に持つ子どもたちが通う。
日本式の授業を日本語で受け、日本で卒業資格が認められる学校はこの1校のみ。中学卒業後には、親子で日本に帰国する例を複数見てきた。ちなみに筆者の知人だけでも、子どもの高校進学で帰国した例は、彼女で5人目だった。
受験は例年、年明けから始まる。2週間の隔離期間を経て、複数校を受験。その間の交通費、宿泊滞在費用、各校の受験料……合格後も入学金に学費と、気の遠くなる金額が積み重なっていく。
本来であれば、前年のオープンスクールで学校見学を終え、雰囲気をつかみ、それから受験という流れのはずだった。それが、学校を自分の目で見ることさえ叶わぬまま、受験した。日本で育ち、日本で高校を受験する子どもたちとは、受験にかけなければならないパワーもコストも桁違いといえる。
帰国前、各種手配だけでなく、必要書類の取得など、膨大な量の手続きに追われる。そこへ当時は台湾でのPCR検査陰性証明、ワクチン接種証明といったコロナ用の書類も加わって、親の負担は相当なものだと見えた。
幾重もの関門をくぐり抜けたその子は無事に希望校に合格し、台湾で日本人学校を卒業して、今は家族と共に日本国内に暮らす。そしてかの友人は次のように振り返る。
「コロナ禍での受験は、母子ともに、神様からの試練と思いながらやりきりました。日本でのナイナイ尽くしの受験・再出発はそれはそれはしんどかった」
コロナ禍にあって、出産、介護、あるいは冠婚葬祭など、人生における大きな転機は容赦なく訪れる。筆者自身、長年お世話になった人が他界したが、葬儀に駆けつけることができず、国境の高さを思い知らされた。同様、歯がゆい思いをした人は少なくないのではないか。
日本と台湾、水際対策の違い
台湾の居留証を持つ筆者の場合、日本へも台湾へもビザなしで入ることができる。それで一時帰国が叶ったわけだが、状況は人によって異なる。それまでノービザで滞在できていた日本観光は今、団体旅行のみが可能で、その他はビザの申請が必須だ。
この事態は、半年ほどで経済再開になっていた2003年のSARSの時とは大きく異なる。日本でも台湾でも、水際対策はなおも継続されている。
一時は混乱が見られた日本への入国だが、今では48時間前のPCR陰性報告書の提出と専用アプリによる各種手続きを済ませておけば、かなりスムーズだった。筆者が到着した羽田空港では、各種確認のため入国時に空港内をかなりの距離歩いたが、言ってしまえばその程度で済んだ。思っていたより楽に出られた印象だ。
日本同様、PCR検査の結果報告を求めていた台湾だが、各国でのPCR検査場の減少にあわせ、8月から入境後に唾液採取によるPCR検査へと切り替えられた。飛行機を降りてからは、電話番号と住所などの連絡先を報告し、唾液を採取して陰性なら、そのままそれぞれの隔離場所へ移動が認められる。この措置であれば、渡航先で陽性という検査結果が出て帰国できずに多額の支払いが必要になる、といった事態は回避できる。PCR検査を受ける場所を探して指定された時間内に結果を受け取るのも大きな手間なのに、日本で認められた書式でしか検査結果を認められないのも、また手間に拍車をかけている。
幸い台湾に戻った筆者は台北松山空港で防疫タクシーを手配してもらい、自宅へ戻った。運転手の話によれば、空港から中部南部へと送り届ける例もあるそう。車内にはビニールで運転席と後部座席に間仕切りがされ、乗客も運転手もマスクはしたまま。乗客が下車したあと、消毒は必須で、その様子を撮影した写真を提出する。消毒にOKが出て初めて、次の防疫タクシー業務が認められる。1日に立て続けで入境者を乗せることはできない。また地方都市の乗客には、限度額を超えると政府からタクシー代の補助が出る。台湾への入境後、毎日、台湾CDCから健康状態を確認するためのショートメッセージが届いた。
現在、台湾では到着翌日から3日、1人1室(浴室込み)で自宅隔離が認められている。その後、4日間は自主隔離期間で、つまりは1週間が隔離期間だ。なお、入境時に渡される抗原検査キットで、陰性であれば4日目から外出も可能になる。
日本では入国前に検査と手続きを求めるのに対し、台湾では入境後に検査と手続きを求める、という差である。
在住外国人もまた同じ
一時帰国で目に止まったのは、コンビニやスーパー、外食産業での外国人スタッフの姿だ。3年前の帰国では日本人スタッフにも遭遇したが、今回はどこも外国人の接客だった。あるカフェでは、中国出身の店員さんが応対してくれた。
「一時帰国ですか。いいですね。私は3年帰っていません」
しまった、と思ったが遅かった。相手の帰りたい気持ちを突き刺したようで、申し訳ない気持ちになった。
「帰国しようと思えばできる」のと「帰国したくてもできない」は似て非なるものだ。そうでなくとも、異なる言語、異なる文化にありながらの生活は、好きとか何とかいう生ぬるい感情だけで乗り越えられるものではない。まずストレスのかかり方が、母語母文化とは比較にならないほど強い。
新型コロナウイルスの登場によって、それまでは意識していなかった「国境」が鮮明に立ち上がってきたように思う。グローバル化に突き進んでいた世界に待ったがかけられた。
9月5日、台湾CDCは、アメリカ、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア、欧州に外交関係のある国々はノービザでの入境可とする、と発表した。そこに日本は含まれていない。日台の観光再開には、もう少し時間がかかりそうだ。