麻生太郎先生の「よほどやばい」発言の含蓄
麻生太郎副総理は、日本国民の意識として、「何となく債券、株に投資するのは危ないという思い込みがある。あれは正しい」としたうえで、「われわれの同期生で証券会社に勤めているのは、よほどやばいやつだった」と述べられたようです。先生特有の乱暴すぎるくらいに明快な発言ですが、実は、意外に、深い含蓄がありはしないでしょうか。
麻生先生の名言
麻生太郎先生の肩書は、副総理兼財務大臣兼内閣府特命担当大臣(金融)という大変に長いものですが、要は、金融界からみれば、監督官庁の金融庁を管轄する大臣です。その大臣の発言として、おもしろい報道がありました。
まず、8月30日の産経新聞ウェブ版は、次のように報じています。
「麻生太郎副総理兼財務相は30日、東京都内の会合で「債券、株に投資するのは危ないという思い込みが(国民に)ある。あれは正しい。われわれの同期生で証券会社に勤めているのは、よほどやばいやつだった」と述べた。」
また、続けて、「この日の会合で、証券業界に関し「詐欺かその一歩手前のようなことをやり、『あんなやくざなものは辞めろ』と親に勘当されたやつがいるぐらいだ」と指摘。同時に「怪しい商売は不動産と証券だった。昭和30年代、40年代に学生だった人は誰でも知っている」とも語った。」と書かれています。
この後段の発言については、8月30日の時事ドットコムでは、「麻生氏は「(同級生は)良い学校を良い成績で(出て)、証券会社でほぼ詐欺か、その一歩手前みたいなことを(やっていた)」と指摘。」となっています。
少しもやばくない発言
証券会社を監督する立場の大臣の発言として、「よほどやばいやつ」とか、「ほぼ詐欺」とか、「やくざなもの」とか、「怪しい商売」などといわれると、物議を醸す可能性があるからこそ、おもしろい発言として、報道価値があったのでしょう。
しかし、75歳の大臣の個人的交友のなかで、古い時代における実感として、「よほどやばいやつ」が証券会社に入社し、そこで、「ほぼ詐欺」のようなことをしていたというふうに、大臣が思われていたとしても、また、当時、証券業を「怪しい商売」とみなす風潮があったという歴史認識を大臣がもたれていたとしても、少しも問題ではありません。
もしかすると、今の証券業界にとっても、半世紀も前の状況については、感覚的に、そうだったかもしれないと思えるのではないでしょうか。むしろ、エマージング経済の輝ける星であった高度経済成長期の日本で、証券業と不動産業は、投資と投機の境目において、より投機色の強いものとして、大活況を呈していたわけですから、それを「怪しい商売」の大繁盛と表現することにつき、少しも違和感はないでしょう。
実際、現在の老境に至った日本からみるとき、今のエマージング経済圏の成長と繁栄のもと、そこでの株式市場や不動産市場の状況については、往時の日本のように、投資と投機の境目の微妙さや、ある種の怪しさを感じるわけであって、だからこそ、そこには魅力があり、ある人は投資の機会を探り、別の人は投機の妙味を求めるのです。
投機の社会的意義
では、証券業というのは、投資の機会を探るものでしょうか、それとも、投機の妙味を求めるものでしょうか。実は、証券業の対象は、投資と投機の両方であって、投機も重要な分野です。
しかし、おそらくは、社会には、投機を罪悪視し、そこに反社会的要素を認めて、ギャンブルと同等の好ましくないものとする意識が強く働いているようです。そこで、普通は、証券業の社会的機能として、株式や債券の引受を通じて産業金融の重要な一翼を担う面のみが強調されるのです。
つまり、経済成長に不可欠の金融機能は、第一に、銀行の仲介機能として、個人貯蓄を預金形態で集め、それを融資に転化する間接金融によってはたされ、第二に、証券会社の市場機能として、個人貯蓄を株式や債券等の金融商品形態で集める直接金融によってはたされるものなので、証券業は、銀行業と並ぶ格式のものであって、決して、「怪しい商売」ではない、これが証券業界の立場であり、同時に、おそらくは、金融庁の立場でもあるのです。
だからこそ、麻生先生の発言は、証券業の投機の側面を不当に強調するものとして、物議を醸すだろうということで、報道価値が認められたのです。しかし、市場機能が健全に機能するためには、市場の流動性が必要であり、そのためには、投機資金を呼び込むことは不可欠なのですから、その側面を否定的にとらえて隠蔽しようとすることこそ、不当であるといわざるを得ません。
むしろ、麻生先生の発言は、過去の歴史的状況についてのものではあれ、投機の側面をあからさまに論じたものとして、稀少かつ貴重な意味があると思われます。
「ほぼ詐欺」もあり得る投機営業
投機資金の呼び込みのためには、「よほどやばいやつ」が人材として適役だったでしょうし、傍から「ほぼ詐欺」にみえる営業手法がとられたとしても、投機の勧誘について、投機に妙味を感じる顧客との間に適合性があれば、何ら問題はなかったはずです。実際、麻生先生は、価値中立的認識として、発言されているとみられ、そこに、投機の勧誘を批判するような口吻は、全く感じられません。
投機とは、射倖心に基づく行為ですから、投機の勧誘は、射倖心を煽るものとなるわけで、投機に関心をもたない傍観者からすれば、「ほぼ詐欺」としかみえないのは、むしろ、当然です。勧誘を受ける顧客は、そもそも、投機に妙味をみいだしているのですから、勧誘における騙された振りも、投機の喜びの重要な一部を形成していたと思われるのです。
新しい投機の舞台
では、投機は過去の話として、現在では、状況は、全く違うのか。実は、投機資金が資本市場機能のために必要であること自体に、何らの変化もありません。
ただし、日本株式市場については、麻生先生が描いたような個人投資家の投機資金の呼び込みは、もはや、あまり必要ではありません。替わって、ヘッジファンドや、海外投資家の資金が活躍しているからです。そして、残された個人投資家の投機資金は、証券会社の勧誘による取引ではなく、インターネット上の証券会社を通じた自律的な判断に基づく取引に移行しているとみられるのです。
そのインターネット上の証券会社を通じた個人の投機も、より大きな舞台は、いわゆるFX取引になっているのではないでしょうか。法令上、為替先物の取引の仲介は、第一種金融商品取引業として、古い言葉でいう証券業なのです。
このFXは、極めて射倖性が強く、規制当局も含めて、問題視する向きもあるようですが、為替市場は、貿易の決済や資本取引を通じて、経済活動にとって極めて重要なものですから、そこに投機による潤沢な流動性が供給されることは、社会的に大きな意味があるのであって、単に、射倖性をもっては、否定できないのです。
逆にいえば、投機は、社会的意義の範囲において、その射倖性が許容されるということです。これは、ちょうど、競馬、競輪、競艇などの公営ギャンブルや、宝くじは、公益のための資金調達手段として運営されるが故に、その射倖性をもって否定され得ないのと同じです。
投機から投資へ
証券会社の個人向け営業にとって、投機がなくなったら、何が残るというのか。いうまでもなく、投資信託等を通じた国民資産の形成です。
現在の証券会社の個人向け事業は、麻生先生が描いた時代風景とは根本的に異なる環境にあるのであり、その社会的機能は、投機資金を、それに適合した顧客層から導入することではなくて、投機とは縁遠い勤労層を主たる顧客基盤として、その長期的な資産形成を支援することになっているのです。
この本質的な変化が進行する過程で、多くの地場証券が廃業していき、逆に投機に特化した新興FX証券会社が多数生まれるなど、証券業界は、大きく変貌してきました。
ところが、残っている証券会社は、社会的機能が本質的に変化していることの自覚が十分ではなく、あるいは、自覚は十分でも、体質改善が十分にできなくて、長期投資を求める新しい顧客基盤に対して、投資信託等の新しい投資商品を、投機の時代の旧態依然たる手法で販売するという不合理、いわば構造的不適合に陥っているのです。
構造的不適合を反映した国民意識
この構造的不適合は、麻生先生が指摘されているように、国民意識として、「何となく債券、株に投資するのは危ないという思い込み」を作りだしています。
さすがに、今どきは、投資信託の販売において、「よほどやばいやつ」が「ほぼ詐欺」の手法を用いるとも思えませんが、「よほどやばい」行為があるという現実は否定し得ないと思われます。事実、つい最近まで、投機になじまない顧客層に対して、極めて投機色の強い投資信託の販売が強行されていたのです。
つい最近まで、というのは、国民資産の形成の重要な道具たるべき投資信託に投機をもち込むことについて、金融庁が警鐘を鳴らしたために、多少の是正が行われたという事情があります。しかし、金融庁の警告でのみ是正されるようなことでは、経営風土の本質的改革は、ほど遠いと考えられるわけで、ここは、証券業界として、社会の期待にそった改革を断行しなければならないところなのです。
そうした本質的改革が断行されない限り、「何となく債券、株に投資するのは危ないという思い込み」を国民意識から完全に払拭することはできず、証券業界にとっては、前時代における投機の顧客に替えて、新しい投資の顧客基盤を形成することができずに、発展の可能性を失うことになります。改革なくして、成長なし、です。
金融行政の問題
さて、視点を変えますが、投機資金を扱う業務と、老後生活資金等の国民資産の形成を扱う業務を、同一の法規制下に置くこと自体に、金融行政の根本的な誤りがある可能性があります。
投機も投資も、第一種金融商品取引業、即ち、伝統的な用語でいう証券業なのであって、そこに、全く区別がないのです。金融庁は、当たり前ですが、法律に基づく行政をするので、投機も投資も、同じ括りになってしまいます。
この金融行政のあり方は、投機と投資を同じにみなしてしまう国民意識の形成につながっているかもしれず、また、投資を基準にして投機を規制することは、投機の社会的機能の阻害要因になる可能性もあり、さらには、証券業界における投機から投資への意識改革の妨げになっている可能性すらあります。
実際、金融行政の目的として、顧客の利益の保護といっても、保護する必要の全くない投機の顧客と、厳格に保護する必要のある投資の顧客とを、同列に置くことはできないはずなのです。
むしろ、金融庁として、金融機関規制法に基づく行政を、金融機能に基づく行政へと、転換することを検討すべきでしょう。森信親長官のもと、金融機関の視点から、顧客の視点へと、金融行政の歴史的転換を進めている金融庁のことですから、これは、当然の方向だと思われます。
改革の旗手になりそこねた窓販
国民資産形成の柱になるべき投資信託について、いわゆる窓販によって、銀行等に広く販売が開放されていることは、証券業の伝統的思考形態を脱する足掛かりになるはずでした。
しかし、痛恨の極みは、銀行等の経営の見識の低さのもとで、投資信託の社会的機能に基づく新しい投資営業の開発ではなくて、証券会社の古臭い投機営業の手法を導入するという愚劣なことが行われてしまったことです。
証券会社の経営改革もままならないなかで、証券会社化した銀行等の経営改革も指導しなければならないとは、金融庁のご苦労、推して知るべし、です。