控訴院で続く暗闘、信玄公旗掛松裁判
公害は高度経済成長時代に問題になっており、数々の訴訟が起きたことさえあります。
そんな公害訴訟ですが、戦前にも似たようなことはありました。
この記事では戦前にあった公害訴訟、信玄公旗掛松事件について紹介していきます。
控訴院での暗闘
1918年、甲府地方裁判所で清水倫茂の訴えに対して敗訴した鉄道院は、3月25日付で東京控訴院へ控訴しました。
鉄道院総裁である後藤新平を代表とし、中原東吉と岩瀬脩二が指定代理人を務めたのです。
この訴訟では、老松の枯死を巡る責任が問われており、原告の清水倫茂は鉄道院の煤煙による被害を主張しています。
一方、鉄道院側は松の枝が越境しており、線路の安全を脅かしているとして逆提訴も行っていたのです。
東京控訴院での裁判が進む中、清水側は鉄道院との示談を模索していました。
1918年5月10日には口頭弁論が予定されていたが、清水は都合により出席できず、代理の弁護士藤巻嘉一郎が出廷したのです。
しかし、鉄道院側に示談の意図はなく、訴訟は通常通り進行します。藤巻は続行を申し立て、裁判の準備を進めたのです。
その後、6月14日に控訴審の判決が下されました。
この日は鉄道院側が欠席したため、「闕席判決」(欠席裁判)として、控訴が棄却される結果となったのです。
裁判長の岩本勇次郎、判事の矢部克己、沼義雄らが担当し、判決では鉄道院側の欠席を理由に「事実」や「理由」の説明を省略し、「主文」のみが告げられました。
この結果、鉄道院は控訴を棄却され、訴訟費用も負担することとなったのです。
しかし、鉄道院はこの判決に不服を申し立て、7月26日に再度審理が行われました。
この判決でも控訴は棄却され、鉄道院の責任が再確認されたのです。
判決理由では、汽車が適切な煙害対策を行わず、その結果沿道の松が枯死したことが「権利の濫用」にあたるとされました。
また、煙害による被害が予見可能であったにもかかわらず、対策を怠った鉄道院の過失が認められたのです。
この判決により、再び甲府地方裁判所で損害賠償額の審理が行われることとなりました。
この結果を受け、鉄道院は大審院へ上告を決定し、9月25日にその手続きを行いました。
鉄道院の主張は、まず「相当な設備」とは何かが具体的に示されていないこと、そして鉄道の運行は鉄道院の正当な権利行使であり、それによる被害が必然的に発生した場合でも違法性はないというものであったのです。
こうして、個人が国を相手取って争う前例のない訴訟は、最終的に大審院の判断に委ねられることとなり、老松枯死の責任問題はさらなる審理を迎えることとなりました。
大審院での勝訴
1918年9月25日、鉄道院は信玄公旗掛松事件での上告を行いました。
代表者は中村是公総裁、指定代表者は中原東吉と岩瀬脩二です。
この事件では、清水倫茂が原告、弁護士は藤巻嘉一郎が担当し、大審院での審理が行われましたが、判決は何度も延期されました。
当時、通信技術が限られていたため、延期の通知は手紙で行われており、これらの手紙は現在、北杜市立郷土資料館に保管されています。
1919年3月3日、大審院での最終判決が下され、これは「信玄公旗掛松事件」として知られる重要な裁判となったのです。
判決は、東京控訴院での判決を維持し、鉄道院側の上告を棄却する内容でした。
この事件の判決は、当時の法曹界に大きな影響を与えたのです。
まず、不法行為の成立には「行為者の故意または過失」が必要であるとされ、鉄道院が適切な防止措置を取らなかったことが問題視されました。
また、権利行使の範囲を超えたかどうかを判断する際に、社会的な観念が導入されたのです。
鉄道が松樹の近くで運行したことが適切な範囲を逸脱していたとされ、被害者である清水倫茂が救済されるべきと結論付けられました。
この事件は、国家権力が強大だった時代において、国に不利な判決が下された珍しいケースです。
信玄公旗掛松事件は、公共事業の限界と国民の権利保護に関する新たな法解釈を示す転換点となりました。