ステイゴールド相手に黙々と仕事をする父を見て育った男の新たなる門出とは?
父はあのステイゴールドの面倒を見て来た男
4月1日、新たな扉を開けた男がいる。
名前は山元譲治。父の重治はあの個性派ステイゴールドを担当した厩務員だった。
1983年4月19日生まれだからもう少しで39回目の誕生日を迎える。
厩務員の父と母・ひとみの下、姉と妹と共に滋賀県の栗東で育てられた。
「子供の頃は自然と騎手を目指しました」
器械体操に興じたのも騎手になるため。小学6年生から乗馬を始めた。しかし、中学卒業時に受けた競馬学校騎手課程では難関突破とならず。高校に進路を変えると馬術部に入部し、インターハイでは個人で優勝してみせた。
高校3年の時に父の担当していたステイゴールドが香港でGⅠ(香港ヴァーズ)を勝って引退の花道を飾りました。ファンの多い馬で、ファンレターもよく届いていたので両親がこまめに返事を書いていたのを覚えています」
騎手の道は断たれたが、厩舎へ行った際、仕事をしている父の姿を見て、新たな道を見つけた気がした。
馬術の腕を買われて明治大学には推薦入学したが「競馬の世界に入るなら早い方が良い」と2年で中退。牧場を2カ所経験した後、2010年に競馬学校に入学した。
「卒業後、栗東トレセンの厩舎で働くようになりました」
山元が働き出してしばらくしてからの事だった。
「安心したのか、父が55歳の若さで早期退職をしました。一緒にトレセンへ通えたのはほんの僅かな期間だけでした」
父と縁のある厩舎で働いた日々
11年からは池江泰寿厩舎に籍を置いた。泰寿は、父が面倒を見てもらった池江泰郎調教師の子息でステイゴールドと共に香港へ渡った(当時調教助手)人物でもあった。
「父のつながりもあって抜擢していただきました」
池江厩舎での忘れられない思い出は沢山あった。中でもステイゴールド産駒で13年にフランス遠征を前にしたオルフェーヴルを任された事は、心に強烈な刻印を捺した。
「『口向きをもっと良く出来るはず』と言われ、託されました。大阪杯(GⅠ)を勝っていたのに、より上を目指そうとする池江先生の姿勢に感服しました」
フランス遠征後には嬉しいニュースを耳にした。前年同様、凱旋門賞(GⅠ)は2着に敗れた。しかし……。
「騎乗したスミヨンが『口向きは良くなっていた』と言ってくれたと聞きました。勝てなかったのは残念だけど、この言葉は嬉しかったです」
その後、ラブリーデイも任された。
「この馬も気性が難しくて、歩かせるのも苦労するくらい口向きに難のある馬でした」
時間を要したが、それだけに5歳で本格化し、天皇賞(秋)(GⅠ、15年)を制した時は嬉しかった。翌年には父も渡った香港へ、春と秋、2度も連れて行ってもらった。
「忘れられない馬になりました」
また、その香港遠征では衝撃を受ける出来事があった。
「日本のトレセンは最強の施設だと思っていたし、実際、競馬場でトレーニングする香港よりずっと素晴らしいと感じました。でも、香港でも強い馬は本当に強くて、施設だけでなく、人次第、やり方次第で強い馬は作れると痛感しました」
裏を返せばいくらトレセンの良い施設であってもやり方を間違えば、走る馬も走らなくなってしまう。そう思うと、施設に頼らず良い馬を作れるホースマンにならなくてはいけないと、考えさせられた。
新たなる門出
「コロナ騒動になる少し前くらいからは独立を具体的に考えるようになりました。池添学調教師や寺島良調教師にも相談し『協力する』という言葉をいただきました。当然、池江調教師にも話すと、最初は驚かれましたが『やるのであれば協力する』と言っていただきました」
こうして育成牧場の開業へ向けて話を進める事になった。
結果、トレセンから車で30分弱の育成牧場が混在する敷地に自らの名を冠した育成牧場“JOJI STABLE”を開場出来る見通しがついた。
「そこからの準備がなかなか大変でした。自分にとっても初めての経験ばかりだし、3月20日までは池江先生の下に所属する形だったので、あまり勝手な事も出来ませんでしたから……」
オープニングスタッフを募り、時間を作って面接。4人を雇う事になった。40の馬房を有す馬房棟を発注し、建設中なので今後は人員ももっと増やすつもりでいる。
こうして冒頭に記したように、4月1日にJOJI STABLEは開場。新たな生活が始まった。
そんな山元には現在3人の子供がいる。
「妻は僕の独立に対し反対もせず、むしろ『やっとやる気になったのね』という感じで後押ししてくれ、すでに事務作業などを手伝ってくれています。また、子供達には親父が頑張って働いている姿を見せられたら……と思っています」
“親父が頑張っている姿”
それはかつて稀代のクセ馬ステイゴールドと向き合って黙々と仕事をしていた父の姿でもあった。今度は山元自身が子供達にそんな姿勢を継承すべく、新たな一歩を歩み出した。もっとも、高校3年生になったばかりという1番上の男の子は「『いずれ競馬の仕事をしたい』と言っている(山元)そうだから、すでに父の気持ちは伝わっているのかもしれない。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)