今週末、どこ行く? はじめての女性「ひとり温泉」なら”絶対”この美食の宿でこもる!≪1万円代≫
福岡県むなかた温泉「御宿はなわらび」
透き通ったボディに目の玉の瑞々しさ、キラリいかの活き造り
福岡県のむなかた温泉「御宿はなわらび」を訪ねた理由は、女将の小林佳子さんがSNSで投稿する数々の宿の写真に惹かれたからだ。博多駅から鹿児島本線で40分で、最寄り駅の東郷駅に到着。百万都市・福岡から近いから行きやすい。
翌日の午後に国土交通省の出先機関・九州運輸局が博多で開催する「女性のための宿泊業セミナー」のファシリテーターを任されており、前泊で「御宿はなわらび」に入った。
女将のSNS通りの、実に静寂な空間だった。
2600坪の広大な敷地に、中庭を巡るように、平家で離れ形式15室の客室が並ぶ。子供はいないのだろうか、静けさが広がる大人のための宿だった。翌日に控えたセミナーの進行をおさらいし、ここでひとり静かに物思いにふけろう。そんな期待通りの宿だった。他のお客さんが犬連れだったのは、ドックランが付く客室があるから。犬好きにはつとに知られた宿である。
嬉しかったのは、女将と予想以上に気持ちが合ったこと。SNSとは不思議なもので、ご本人の写真も拝見していたために初対面の気がせず、再会を喜ぶような感覚だった。
そんな女将が夕食についてくださった。
女将も、私の活動をご存知でいてくださり、しょっぱなから宿泊業界の問題点や課題を赤裸々に語ってくださる。私も、翌日のセミナーを控えていたために真剣に聞き入った。
食事がスタートし、女将の闊達なお人柄が徐々に判明してきた頃、「鐘崎(かねざき)いかの活き造り」が登場。
きらっきらのいかの姿がそこにある。ボディは透き通り、目の玉もまだ瑞々しい。時おり元気に足を動かす。ちなみに、この日の午前まで泳いでいたそうだ。
一体これは、な、なんですか。いかから目が離せなくなっている私に対し、女将は、この圧倒的な存在感を示すいかを確保するに至った経緯を説明してくださった。
話は、「はなわらび」の前身となった宿から始まる。
ここから2キロ離れた福岡一の水揚げ量を誇る鐘崎漁港に宿があった。特にいかとトラフグが採れるのだとか。
当時は近隣の炭鉱が栄え、マイクロバスの送迎付きで、炭鉱で働く男たちをお客としていた。その後、炭鉱は閉鎖され、時代は団体旅行から個人旅行へと移行していった。個人客を獲得するためには名物が必要である。そこで「いかの活き造り定食」を考案する。ただ台風やシケで船が出せないせいで、お客さんにいつも提供できなければ、名物とは言えない。安定して、生きたいかを提供することが求められた。
そこで宿に生け簀を作り、いかを泳がせたが、いかはナーバスな生き物である。少しのストレスで墨を吐き、同じ水槽にいるいかはその墨を吸ってしまう。共食いもした。
「それで生け簀を海の中の環境に近づけようと思ったんです。たまたま車を走らせている時に見かけたショベルカーから、思いつきました。生け簀に海水を引いてこようって」
そこからは、女将の快進撃である。
シケの晩、潮が引いたタイミングで、海の底にショベルカーを下ろして、穴を堀って、パイプを設置した。そのパイプを使って海水を宿まで引いた。
「うちの生け簀が見事、澄んだ海水で満たされました」
「え? それ、本当にやったんですか」
「やったのよね~。私、やったのよ……」と、女将は遠くを見る。
一瞬、何をおっしゃっているのかわからず、事実関係を女将に何度も聞き返した。その度に、女将は克明に語ってくださる。
現在はろ過装置などの技術が発達し、生け簀には元気ないかが泳いでおり、活き造りをいつでも食べることができる。
さて、そのいかである。そこまで情熱を注がれるとは、いかながらにして、天晴れである。心していただくぞ。
箸でいかを持ち上げると、光沢があり過ぎて「つるん」と滑った。口に含むと、いかが泳いでいるような躍動感。逃がさないように噛み締めると「コリッ」と「もっちり」。そして甘く、どこまでも甘く、いか味噌のかぐわしさが広がる。口の中で「ぱっ」と花が咲くような甘さと香り。他の刺身も舌を押し返す弾力に感嘆した。刺身の鮮度は弾力でわかる。
ゲソはから揚げにしてくれた。「サクッ」「コリッ」と音を響かせながら食す。これで1杯を完食なり。いかで満たされた晩であった。
この夜、私の夢には元気いっぱいないかが出てきた。
※この記事は2024年9月6日に発売された自著『ひとり温泉 おいしいごはん』(河出文庫)から抜粋し転載しています。