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【戦国こぼれ話】民家で伊達政宗の直筆書状を発見。名門伊達氏が歩んできたいばらのような道とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
伊達政宗像。伊達氏は名門だったが、その歴史は苦難の連続だった。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 今月、宮城県大郷町の民家で伊達政宗の直筆書状が発見された。せっかくの機会なので、鎌倉時代以降の伊達氏の流れを確認することにしよう。

■鎌倉・南北朝時代の伊達氏

 伊達氏の先祖は、中納言・藤原山蔭の子孫・実宗と伝わる。当初、実宗は常陸国伊佐庄中村(茨城県筑西市)に本拠を定め、伊佐氏または中村氏を称したという。

 実質的な伊達氏の祖は、実宗から五代目の朝宗である。文治5年(1189)、源頼朝が奥州を征討した際、従軍した朝宗は大いに軍功を挙げた。

 その功により、朝宗は陸奥国伊達郡を与えられた。以降、朝宗は伊達氏を称するようになった。

 建武政権において、伊達行朝は奥州式評定衆に任じられ、南朝の一員として活躍した。政宗(初代)の頃までには、信夫、刈田、伊具、亘理、柴田、名取、宮城および出羽国置賜などの諸郡に威勢を振るっていた。また、伊達氏は室町幕府と積極的に関係を結び、関東公方に対抗した。

■伊達氏の権力拡大

 伊達氏が戦国大名に飛躍したのは、稙宗の代であった。大永2年(1522)に稙宗は陸奥守護に任じられ、天文5年(1536)には歴史の教科書でおなじみの分国法「塵芥集」を制定した。

 「塵芥集」は171ヵ条から成り、分国法のなかでもっとも多い条文を誇っている。本文は鎌倉幕府が制定した「御成敗式目」に倣っており、裁判規範や家臣の統制に関する条文が注目されている。

 天文17年(1548)、稙宗は子の晴宗と対立し、隠退を余儀なくされた。稙宗が失脚した理由は、段銭という税金の負荷が重かったため、家臣たちの反発を招いたとされている。

 稙宗のあとを継いだ晴宗は、室町幕府から奥州探題に任命され、同時に家臣団統制などを強化し、佐竹、岩城、蘆名、留守諸氏に子息・息女を入嗣、入嫁させた、

 伊達氏は一連の婚姻政策により、いっそう勢力を拡大することに成功したのだ。晴宗の代になって、本拠を伊達郡から米沢(山形県米沢市)に移している。

■伊達政宗の登場

 輝宗の没後、家督を継承したのは子の政宗である。「独眼竜」と称されたが、幼少時は片目が見えなかったため、塞ぎがちな性格であったと伝わる。

 政宗の代に至ると、仙道諸郡と会津(福島県会津若松市など)をも領有し、大崎・葛西氏などを支配下に収めた。

 しかし、政宗は豊臣秀吉との関係がしっくりいかず、天正18年(1590)の小田原合戦には遅参するという失態を演じた。秀吉から許され服属した結果、一部の領土が没収された。

 慶長5年(1600)に関ケ原合戦がはじまると、政宗は東軍に属し、徳川家康から「百万石のお墨付」を与えられ、旧領回復の約束を交わした。ところが、政宗の奮闘にもかかわらず、約束は反故にされた。

 政宗の代には玉造郡岩出山(宮城県大崎市)から仙台(同仙台市)に移り、62万石を領有することになり、家は幕末維新期まで続いた。なお、伊予・宇和島藩は、政宗の子・秀宗が藩祖である。

 伊達氏は鎌倉時代以来の名門だったが、その歴史は苦難の連続だった。多くの大名が途中で滅亡する中で、幕末維新期まで命脈をたどったのは、見事であるといえよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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