原爆を日本社会の記憶から世界の記憶へ:私たち人類の残酷さを知ることで平和を作ろう
<日本人は原爆の悲惨さをよく学んでいる。だが、原爆は自然災害ではなく、人が人の上に意図的に落とした。だから、意図的に使わないこともできるはずだ。世界は今も核戦争の危機の中にある。>
■原爆の日:あの日から75年目に
核兵器は恐ろしい。爆弾はみな恐ろしいが、核兵器は格段に恐ろしい。
核兵器は、無差別大量殺りく兵器だ。軍事基地も、軍人も、軍需工場も、民家も民間人も、男も女も、大人も子供も赤ん坊も、仏教徒もキリスト教徒も、自国兵士の捕虜も、すべてを殺りくする。
核兵器は、根こそぎ破壊し尽くす。人の命だけでなく、記録も記憶も、生きた証ごと全てを焼き尽くす。町が丸ごとなくなれば、記録も消え、覚えてる人もすべていなくなり、そうなれば、そこに誰が住んでいたのかもわからない。
たしかにそこには町があり、ささやかながらも幸せな生活があったはずなのに、もう何もわからなくなる。
原爆は恐ろしい。
■原爆は「落ちた」のではなく、意図的に「落とされた」
原爆は「落ちた」のではなく「落とされた」。自然災害でも事故でもなく、意図的に。
私たち日本人は、原爆の悲惨さを学んでいる。学校で、マンガやアニメや映画で。くりかえし、くりかえし。広島や長崎を訪れて、資料館を訪問すれば、実感はさらに増す。
一日市内観光をして、原爆資料館に行くと、今日行ったあそこもここも、たった1発の爆弾で破壊されたのかと思うと、その破壊力のすさまじさを感じることができる。
りっぱな資料だけでなく、普通の人々が書いた絵も、心に突き刺さる。
原爆被害は悲惨だ。だが、最大の悲劇は、原爆が自然災害でもなく、事故でもなく、意図的に人間が落としたということだ。
■原爆は誰が落としたか
冷静な科学者たちが原爆を作った。正義感あふれる政治家が決定した。勇気と家族愛郷土愛にあふれた兵士たちが実行した。やさしい普通の国民が支持をした。
原爆は、冷酷で愚かな人が衝動的に作って落としたのではない。
もしも日本が最初に原爆開発に成功していたら、日本も原爆を使ったことだろう。やさしく思いやりあふれる日本人も、誰かの頭上に原爆を落としたことだろう。
■社会の記憶、人類の記憶としての原爆
人はどんな大きなことでもしだいに忘れていく。直接体験した人も、いずれ次々亡くなっていく。どんな大きな出来事も、いずれは風化していく。
しかし、風化させてはいけないこともある。忘れないためには、個人の記憶を越えて、「社会の記憶」にしなければならない。
記憶は、一人ひとりの中にあるだけではなく、社会全体で持つことができる。それが社会の記憶であり文化とも言えるだろう。
戦後、原爆ドームを見ると、心が苦しくなる人がたくさんいた。当初、壊してほしいとの願いも多かった。メディアの論調の中にも、取り壊し賛成の意見はあった。
だが、原爆ドームは残された。永久保存が決められたのは、昭和も後半、昭和41年(1966年)だ。
そして原爆の日から50年目の平成7年(1995年)に国の史跡に指定、1996年には世界遺産(文化遺産)への登録が決定された。
原爆ドームがあり、総理出席の式典があり、甲子園大会の最中でも黙とうがあり、それが毎年大きく報道される。
原爆の記憶は、個人の記憶を越えて、日本社会の記憶となって残っている。
■さらに世界の記憶、人類の記憶へ
原爆の記憶で、他国を非難し、誰かを責め続けることが良いこととは思えない。そんなことをしても、世界が共有する記憶にはならないだろう。
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」(原爆死没者慰霊碑)。
「この碑文の趣旨は、原子爆弾の犠牲者は、単に一国一民族の犠牲者ではなく、人類全体の平和のいしずえとなって祀られており、その原爆の犠牲者に対して反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならないというものです」(広島市ホームページ)。
冷静な目で、当時の日米政府と軍のあり方について調査し議論することは必要だ。だが、心の面では、私たち人間が私たちの仲間の上に原爆を落としたことを忘れたくない。
日本社会の記憶となった原爆を、世界人類の社会的記憶にしたい。
原爆の悲しみを知り、原爆の恐ろしさを学び、原爆を落とした残酷さに目を向けたい。
原爆の悲惨さだけではなく、人の心の残酷さを、もう一度確認したい。
そしてこの私も、その残酷な人類の一人なのだと。