【河内長野市】住宅地の下に眠る大師山遺跡。日東町にある弥生時代と古墳時代の前方後円墳跡から見える絶景
特に説明は不要だと思いますが、河内長野市内は、山林を造成して多くの住宅地ができました。当時の日本は高度成長期だったので、次々と住宅地を造成しますが、そのなかには今考えるともったいないと思わざるを得ないこと、過去に遺跡だったところがあります。
大師山遺跡もその遺跡のひとつで、弥生時代後期から古墳時代にかけての遺跡が発見されたのにもかかわらず、最終的に宅地造成化されてしまいました。それが日東町のあたりになります。さて現在はどうなっているのか、実際に見てみることにしました。
現地に行く前に、先日購入したこちらの図説で該当箇所を調べてみました。それに加えて「河内長野大師山 全国遺跡報告総覧」で検索すると、大師山遺跡・古墳の発掘調査の報告資料が無料でダウンロードできます。
大師山古墳は、もともと1930年の大師堂を再建しようとしたときに、遺跡が出土したことがきっかけで、翌年に発掘調査が行われました。
その時は、内行花文鏡(ないこうかもんきょう:中国の後漢のころに多数作られた銅鏡で、弥生時代から古墳時代にかけて輸入また模造)等の出土品が見つかり、ここが古墳、しかも円墳であったとされます。
なお出土した内行花文鏡をはじめとする戦前の発掘物は、現在東京国立博物館(外部リンク)で保管されているとのこと。
その後、宅地造成をするタイミングで再度調査が行われたとあります。その調査は、1969年10月13日から12月14日まで行われ、その時に円墳ではなく、実は前方後円墳だと判明したとのこと。また、次のようなものも見つかりました。
- 管玉(くだだま:管状になっている宝飾装身具) 1点
- 車輪石(しゃりんせき:オオツタノハという貝を加工した貝輪を石で模造した腕輪形の石製品で、車輪に見立てて江戸時代に命名)9点
- 石釧(いしくしろ:石で作られた腕輪状のもの) 9点
- 鉄器 片2点
- 埴輪片(はにわへん) 多数
- 木棺片(もっかんへん)1点
古墳調査中の11月に、一般市民が散歩中に見つけたという弥生式土器の破片が提供され、また教育委員会より提示のあった地図の場所に弥生式土器片の採集地点が記されたことから、より精密な調査をすることになります。
再度、大師山遺跡発掘調査として、翌1970年3月2日から4月8日まで行われた結果、弥生式土器の、壺形、長頸壺形、細頸壺形、甕形、高杯形、鉢形、甑、手焙形が多数発見されました。
その他にも、石鏃、砥石、鉄鏃や、古墳時代以降の須恵器、瓦器、土師器などが発見され、弥生時代後期の高地性遺跡であることが確認されます。しかし、宅地造成工事が始まっていたこともあり、調査後は遺跡そのものは保存されることはなく、住宅地の地下に眠ったようです。
戦後に発掘されたものは、高向にある河内長野市立ふるさと歴史学習館に収蔵されていると考えられますが、具体的にどの発掘物を収蔵しているのかは確認できていませんので、興味のある方は直接問い合わせてみてください。
少し前置きが長くなりましたが、大師山古墳・遺跡があったところに来ました。大師町のバス停ですが、ややこしいことに大師山古墳・遺跡は大師町にはありません。
地図で見るとわかりやすいのですが、大師山古墳・遺跡に関する足跡は、大師町の南側にある日東町です。いちばん近いのは東中学校前バス停ですが、大師町バス停で降りても徒歩圏内。
まず最初に向かったのは、東中学校の東側にある大師山古墳・遺跡のモニュメントです。
東中学校のすぐ東側に、大師山の遺跡の説明版があります。
東中学校に通う中学生は、登校するたびにこのモニュメントを見ることになるので、嫌でも意識することになるでしょうか?
実物はもちろん、レプリカもありませんが、このように石板に弥生式土器の絵が描かれていました。
その隣には、古墳時代で、今は東京の博物館で保管されている内行花文鏡の紹介です。日本で作られているとあるので、倭製鏡(模造)になりますね。
模造というとレプリカみたいですが、要するに国産品ということなんでしょうけれど。
さて、日東町の住宅地を西方向に。これから大師山古墳の古墳跡地の場所に歩いて向かいます。
大師山古墳跡地は、現在、楠台第一公園になっています。
ベンチがあるだけの、本当に小さな公園です。
しかし、ここが単なる公園ではないことは、こちらの石碑が示しています。
かつてこの場所に前方後円墳があったというのですから、驚きですね。古墳の大きさは、全長52メートル。前方部の幅は25メートルで、後円周部の直径は30メートルあったとか。
丸い部分が崖に突き出している感じで、そのため戦前は円墳と思われていたようです。
想像ですが、こんなイメージで前方後円墳が存在したのでしょうか?
後円部分が崖に突き出しているということで、今も楠台第一公園から西側は、三日市町方面が見渡せるように崖になっています。
少し離れたところから見ると、結構な高低差があります。弥生時代には三日市駅周辺にも遺跡があっていろいろ発掘されているようですが、この大師山古墳・遺跡は明らかに独立した高台にありますね。
さらに図録によると、銅鏡や石製品は大和王権(政権)が作り、それを支配していた豪族に配ったものだったとか。大和王権と高台の大師山の集落を支配していた豪族との関係も気になるところ。
もしかしたら、大和王権とつながっていることを、崖の下の他の集落に見せつけるように崖のところに古墳を作ったのではないか。いろいろ妄想しながら、三日市の町をしばらく眺めました。
楠台第1公園・大師山古墳跡地
住所:大阪府河内長野市日東町13-15
アクセス:南海・近鉄河内長野駅からバス 東中学校前バス停下車徒歩5分