花子とアンの心:『アンが愛した聖書の言葉:赤毛のアンを大人読み』を読んで
■NHK朝の連続ドラマ『花子とアン』
NHKの連続テレビ小説『花子とアン』(主演:吉高由里子)も、来週はいよいよ最終週。戦争中に必死に書き上げた『Anne of Green Gables』(Lucy Maud Montgomery)の翻訳『赤毛のアン』(村岡花子 訳)が、いよいよ出版されるようです。
日本中で、世界中で愛されている、赤毛の少女アン・シャーリー(アンはもちろん末尾にeの付く「Anne」)。
『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』(村岡恵理)原案によるこのドラマのヒットと、『赤毛のアン』の再ブームの中で、多くの関連書も出ていますが、今回は『アンが愛した聖書の言葉:赤毛のアンを大人読み』(宮 葉子 著 いのちのことば社フォレストブックス)を通して、『赤毛のアン』の魅力に迫りたいと思います。
■『アンが愛した聖書の言葉:赤毛のアンを大人読み』(宮 葉子 著 いのちのことば社フォレストブックス)
『赤毛のアン』には、多くの聖書の言葉が引用されています。たとえば「マシュウは、イエス・キリストの12弟子のひとり、マタイの英語名」です。ただし本書によれば、『赤毛のアン』の世界では、お説教や教訓めいた話しとして聖書の言葉を使っていません。
『赤毛のアン』は、児童書、女の子が読む本というイメージがあるかもしれませんが、読み継がれている子どもの本には、実は大人が読んでも深く考えさせる真実が込められてます。「その正体を探れるのは、大人ならではの知的な遊び」。「大人読み」だと、著者は語ります。
本書を通して、「アンという女の子が私たちを幸せにする理由」を知り、大人としての知性と経験による『赤毛のアン』の再発見ができそうです。
私自身、思春期の頃に『赤毛のアン』(村岡花子 訳)を初めて読み、20代の終わりに再度読み、そして今もう一度、アンと出会おうとしています。
■聖書の言葉と神の愛
有名な聖書の言葉はいくつもあります。「豚に真珠」とか「目からウロコ」とか。「剣を取る者は、剣で滅びる」とか「明日のことを思い煩うな」「汝の敵を愛せよ」「神は愛なり」とか。
聖書の言葉が、その時の人の心にぴたりとはまることもあります。しかし、ただの道徳律として押し付けられても、反発したくなるだけでしょう。
幼くして両親を亡くし、大人の間を転々とし、深い愛で包まれてこなかったアン・シャーリー。お祈りなんてしたこともありません。初めてアンと会ったマリラは思います。
「この子は、人と人との心に通う愛情を仲立ちとしてあらわれる神の愛を受けたことがないから、神の愛なんて知りもしなければ、関心すらないのだ」。マリラが「型通りの口真似などやらせても無意味だと直感的に悟った場面」です。
本書によれば、「当時、版元や読者に好まれていたのは、「教訓めいたもの」を入れる物語だった」そうです。モンゴメリーは、そんな露骨なことは嫌ったのでしょう。それは、物語の中に、そっとひそやかに含まれています。
『赤毛のアン』で使われる多くの聖書の引用は、「一種のパロディーとして、あるいは知的な効果をねらった隠し味となって」います。その具体例は、ぜひ本書でお読みください。
■『赤毛のアン』を大人読み
子どもが『赤毛のアン』を読めば、感情移入するのはもちろんアン・シャーリーです。アンと一緒に泣いたり笑ったり。アンを引き取ったまじめな働き者マリラは、子どもから見れば、少しとっつきにくい存在でしょう。
しかし、大人になって読むと、「マリラの視線でアンを見ることが、自然になってくる」という人も多いでしょう。
本書を読んで初めて知ったのですが、村岡花子訳では、当時の日本の子どもたちにとってわかりやすい内容にするために、「マリラに関しては思い切った省略が所々ある」そうです。
「松本侑子などの完訳や、村岡花子の改訂版」を読むと、マリラの決意や心の変化がなお一層わかります。
『赤毛のアン』は、豊かな人物表現によって、子どもが読んでも、子ども心を忘れていない大人が読んでも、父母となった人が読んでも、心に響きます。
■新しい朝・曲がり角
本書『アンが愛した聖書の言葉:赤毛のアンを大人読み』の著者、宮 葉子さんは、読書会を開いています(「大人のための子どもの本の読書会」「牧師館のお茶会」)。
同じ本を愛する人々が集まり、語り合うのは、すてきですね。本書を読むだけでも、バーチャル読書会が味わえそうですが。
『赤毛のアン』は、一人の男性の目から見ても、心理学的に見ても、語りどころ満載です。『赤毛のアン』『アルプスの少女ハイジ』『愛少女ポリアンナ(少女パレアナ)』『アニー』それから古い映画ですが『オーケストラの少女』。
どの物語も、元気な女の子が、成長しながら、周囲の堅物の大人たちを変えていってしまうお話です。「少女に不可能はない」と思ってしまいます。「ポリアンナ効果」なんて心理学の言葉もあります。
私たちはみな、男でも女でも、いくつになってもそんな「少女性」を失いたくないと感じています。
「我と共に老いよ。最上のものはなお後に来たる。」(『花子とアン』ブラックバーン校長の卒業式での挨拶)。
「心の窓を大きく開けて、一歩を踏み出しましょう。〜勇気を出して歩いていけば、その先にはきっと一番良いものが待っていると、私は信じています。」(『花子とアン』「どんな朝でも美しい」9月20日放送。花子が戦後再開した最初のラジオ番組での言葉)
「日々、新しい朝を喜ぶことはアンの賜物だ。喜びは人生に夜明けを引き寄せる。」(宮 葉子 著『アンが愛した聖書の言葉:赤毛のアンを大人読み』)
◇最終週は「曲り角の先に」
「いま曲がり角に来たのよ。曲がり角を曲がったさきになにがあるかは、わからないの。でも、きっといちばんよいものにちがいないと思うの。」(『赤毛のアン』)
教訓臭くなってはいけませんけれども、
村岡花子も、アン・シャーリーも、そして誰もが、不幸に襲われます。悲しみと心配と不安の夜がやってきます。行き先は定まらず、心配の種は多いでしょう。それでも、私たちはきっと大丈夫です。
「神、天にしろしめし、世はすべて、こともなし」(アンの言葉として『赤毛のアン』に引用されたブラウニングの詩。明治時代の邦題は「春の朝(あした)」)。
ごきげんよう。さようなら。