【深掘り「どうする家康」】わざと干支を間違えた徳川家康の母・於大の方は、大変な苦労人だった
NHK大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康の母・於大の方が登場した。今回は於大の方について、詳しく解説することにしたい。
享禄元年(1528)、於大の方は三河国刈谷城(愛知県刈谷市)主の水野忠政とお富(華陽院)の娘として誕生した。一説によると、もともと於大の方は青木政信の娘だったが、水野忠政の養女に迎えられたとも言われている。
天文10年(1541)、於大の方は三河国岡崎城(愛知県)主の松平広忠と結婚した。翌年、長男の家康が誕生するなど、夫婦仲には特に問題がなかった。当時、広忠は駿河国の今川氏、尾張国の織田氏の両勢力の狭間にあって、今川氏に与していた。
ところが、水野忠政の跡を継いだ信元(於大の方の兄)は、突如として今川氏から離反し、織田氏の配下に加わった。これが不幸のはじまりだった。今川氏に与する広忠にとっては、妻の実家が裏切るなど、とても許される状況ではなかった。
こうして天文13年(1544)、広忠は泣く泣く於大の方と離縁せざるを得なくなったのである。離縁した於大の方は刈谷に戻ると、のちに阿久居城(愛知県阿久比町)主の久松俊勝と再婚し、三男四女をもうけたのである。
この間、於大の方は息子の家康と連絡を絶やすことがなかったという。強い母子愛で、2人は結ばれていたのである。別れ別れになった於大の方と家康だったが、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いが状況を一変させたのである。
織田氏と戦った今川氏は敗北を喫し、当主の義元が討ち死にした。戦いの後で、家康は阿久居城へ母・於大の方を訪ね、16年ぶりに再会した。2人は、手を取り合って喜んだという。こうして於大の方は、家康のもとで暮らすようになった。
その後、於大の方の夫・久松俊勝は松平姓と葵の御紋の使用を許可され、再婚後の子供たちも合わせて久松松平家として厚遇された。慶長7年(1602)、於大の方は伏見城で没した。享年75。その死後、従一位を贈位されたのである。