【深掘り「どうする家康」】今川氏真が松平元康を見放した原因の「善得寺の会盟」は虚説だった
大河ドラマ「どうする家康」では、今川氏真が松平元康を見放していた。その原因となった「善得寺の会盟」(甲駿相三国同盟)はあったのか、深掘りすることにしよう。
永禄3年(1560)5月、今川義元は桶狭間の戦いで織田信長との戦いに敗れ、戦死した。これにより、義元の子の氏真は、正式に今川家を継いだものの、前途は多難だった。松平元康が織田方に寝返ったのも、一つの原因だろう。
桶狭間の戦いの直後、越後の上杉謙信が関東への侵攻を目論んだ。敵対する武田信玄、北条氏康は、謙信の動きを警戒しなくてはならなかった。それは、武田、北条と「善得寺の会盟」(甲駿相三国同盟)で同盟を結んだ氏真も同じだった。
それゆえ、氏真は織田信長と交戦状態にあった元康を十分支援できず、また三河衆の支持も得られなくなったので、最終的に裏切られてしまったのである。では、いわゆる「善得寺の会盟」(甲駿相三国同盟)とは、いかなるものなのだろうか。
『北条五代記』『関八州古戦録』などの後世に成立した軍記物語などによると、天文23年(1554)、武田信玄、今川義元、北条氏康の三者が駿河国善得寺(静岡県富士市)に会し、三国同盟を結んだという。これが「善得寺の会盟」である。
善得寺は今川氏の軍師太原雪斎が修行した寺であり、三国同盟は雪斎がその重要性を説き、熱心に勧めたといわれている。果たして、これは事実とみなしてよいのであろうか。
根拠とされている『北条五代記』『関八州古戦録』は、あまり良質な史料と評価ではない。加えて、当時の状況において、トップの三者が集まって同盟への会合を持ったとは考えにくい。
したがって、現在の研究によると、「善得寺の会盟」は史実ではなく、創作であるとして否定されている。では、実際の三国同盟は、いかなる手順を踏んで行われたのだろうか。
〔第1弾〕天文21年(1552)11月の信玄の子・義信と義元の娘・嶺松院との結婚。
〔第2弾〕天文23年(1554)3月の義元の子・氏真と北条氏康の娘・早川殿との結婚。
〔第3弾〕天文23年(1554)12月の氏康の子・氏政と信玄の娘・黄梅院との結婚。
三者それぞれが婚姻関係を結ぶことにより、段階的に同盟が結ばれたと考えられる。このほうが、現実的かつ合理的な手法といえよう。