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【追悼】「関西最後の大物芸人」上岡龍太郎氏が58歳で芸能界引退した理由

ラリー遠田作家・お笑い評論家
(写真:アフロ)

元タレントの上岡龍太郎氏が、5月19日に大阪府内の病院で肺がんと間質性肺炎のため亡くなっていたことが発表された。81歳だった。

いま40代以上の一般的なテレビ視聴者であれば、上岡のことを知らない人はほとんどいないだろう。彼はかつて数多くの番組で司会を務めた人気芸人だった。

しかし、若い世代の中には彼のことをよく知らないという人もいるかもしれない。その理由は、上岡が2000年に引退を発表して、二度と表舞台に復帰することがなかったからだ。去り際があまりにも鮮やかだったため、下の世代の人にはその存在すら認知されていない可能性がある。

彼は人気絶頂期になぜ自ら引退を選んだのか。毀誉褒貶の激しい上岡龍太郎とはそもそもいかなる人物だったのか。その歩みを紐解いていきたい。

1942年、上岡龍太郎は京都府に生まれた。物心ついたときからラジオで流れてくる漫才や落語を熱心に聞いていた。中学生のときには時代劇に夢中になり、役者を志すようになった。だが、高校に入ると一転してロカビリーに目覚めて、ジャズ喫茶に出入りするようになった。

ミュージシャンになることを考えたこともあったが、歌は上手くなく、楽器の練習をするのも面倒だったため、司会者の勉強をすることにした。

1960年、横山ノックに誘われて「横山パンチ」という芸名で漫才を始めることにした。のちに横山フックも加わり「漫画トリオ」という3人組での活動が始まった。

「パンパカパーン、パンパンパン、パンパカパーン、今週のハイライト」という決まり文句で始まるテンポのいい時事ネタ漫才は当時としては斬新だった。

1960年代半ばにはお笑い界で「トリオブーム」が起こり、てんぷくトリオ、トリオ・ザ・パンチ、トリオ・スカイラインなど多くのトリオ芸人が爆発的な人気を博した。大阪を拠点に活動していた漫画トリオもその波に乗って全国的にその名を知られるようになった。

ここまでは順調だったのだが、1968年にノックが参議院議員選挙に出馬することを発表して、漫画トリオは活動を休止することになった。

このときから芸名を「上岡龍太郎」に変えて、大阪のラジオ番組で話術を磨いた。ここで難しい言葉で聞き手を煙に巻き、立て板に水でしゃべり続ける上岡流の話術が確立された。

これを武器にして上岡は徐々に大阪のテレビでも活躍するようになった。1987年に大阪ローカルで始まった『鶴瓶上岡のパペポTV』(読売テレビ)が1988年10月から東京でも放送されるようになると、東京の業界人の間でこの番組が話題になった。

『パペポTV』は笑福亭鶴瓶と上岡が何のテーマも決めずに60分間しゃべるだけの番組だ。自分の体験したことや感じたことをストレートに話す鶴瓶に対して、上岡は理屈っぽくクールに対応する。その対象的なキャラクターのぶつかり合いによって笑いが生まれていた。

「面白ければ何でもあり」「東京のテレビには負けない」という雰囲気があった大阪のテレビ界で、上岡は数々の型破りな番組に携わっていた。東京でも放送されていたこれらの番組を見て、東京のテレビ制作者は衝撃を受けた。彼らの間で、上岡を「ポストたけし・さんま」として東京のテレビでも起用しようという機運が高まっていった。

いざ上岡が東京で番組を始めてみると、評判も上々で、どんどん仕事は増えていった。当時の東京のテレビ界では、上岡のように断定口調で偉そうにものを言う大人向けの司会者が不在だったのだ。

上岡は東京進出に成功した。好き嫌いの分かれる憎まれ役ではあるものの、司会者としてもゲストとしてもスタッフが期待する役割をしっかりこなせるため、重宝された。

しかし、上岡自身はそんな状況に満足はしていなかった。昔からの趣味である古代史の研究や、新たに始めたゴルフやマラソンに夢中になったりしていた。また、テレビ以外の場所で芸人として自主的な活動も行っていた。

劇団を旗揚げして、もともとの夢だった芝居、そして講談、さらに漫談のライブまで開催していた。テレビの枠にとらわれず、芸人としての芸を磨くことを怠ってはいなかった。だが、それらはあくまでも舞台の活動にとどまっていて、世間にはあまり認知されていなかった。

そして、あるとき、上岡は引退を決意した。引退の理由については本人がいろいろな場所でいくつかの違った理由を挙げている。

そのうちの1つは、自分が引退した方がいいタイミングが来たら教えてほしいと妻に話したら「今やで」と言われたという話。

別の話としては、楽屋の鏡で白髪交じりの老人になった自分の姿を見て、内面は変わっていないのに体は確実に衰えているのが許せないと思った、というのがある。

また、もっともらしい理由としては、ゴルフにはまっているのでアメリカに渡ってゴルフのプロになりたい、という夢を語っていたこともあった。

ただ、どの理由に関しても、世間やタレント仲間からは真剣に受け取られていなかった。上岡と言えば、その場しのぎの口から出まかせが得意な屁理屈人間である。前言撤回も日常茶飯事だ。上岡もすぐに帰ってくるだろう。誰もがそう思っていた。

ところが、上岡は本当に姿を消した。2000年3月ですべてのテレビの仕事を終えて、きれいさっぱりいなくなってしまったのだ。

上岡はなぜ引退したのか。基本的には、引退口上での「もう思い残すことはございません」という言葉が文字通り本音に近いのではないかと思う。テレビという分野でも、舞台という分野でも、上岡は自分にできることを一通りやり尽くしていた。それ以上の夢や野望はなかった。だから潔く引退を決めたのである。

上岡は、自分が本質的にはテレビに向いていない芸人であると思っていた。「テレビで面白いのは、素人が芸をやるか、玄人が私生活を見せるか、2つに1つだ」という彼の持論がある。

テレビはリアルを見せるものなので、素人が背伸びして芸をやろうとして上手くできないのがおかしい。また、玄人がプライベートな一面を見せるというのも、それはそれで身近に感じられて面白い。

だが、玄人が芸をやると、あざといし嫌味に見えてしまう。テレビではそういうものが通用しないのだ。

上岡はつねづね「テレビ芸の理想は明石家さんまや笑福亭鶴瓶である」と語っていた。彼らは、何十年も前から話しているエピソードを、まるで昨日のことのように臨場感を出しながら熱く語ることができる。鶴瓶は興奮すると言葉を詰まらせながらも必死でしゃべる。これがテレビの話芸というものだ。

一方、上岡自身は何でもよどみなくペラペラと話をすることができる。これは芸としては優れている部分もあるのだが、テレビという枠の中ではリアリティが感じられず、違和感が出てきてしまう。

「自分には鶴瓶のようなしゃべりはできない」と思っていた上岡は、テレビ芸に向いていない自分の才能を見限っていた。

また、東京のテレビでは、大阪でやっていたような「嫌味な屁理屈キャラ」というのが通じなかった。上岡が感じの悪いことを言うと、東京の視聴者にはそのまま「なんて嫌なやつだ」と受け取られてしまう。何でも「笑い」というフィルターを通して受け止めようとしてくれる関西とは違っていた。東京では、ありのまま、見たままの表層的な部分にしか注目されない。そのことにも違和感を感じていた。

上岡の流暢なしゃべりや強引な屁理屈は、東京のテレビでは芸としてウケていたわけではなかった。「偏屈な頑固オヤジ」という分かりやすいアイコンとして消費されていただけだった。

彼は芸の世界に憧れ、芸人に憧れながらも、自分自身が芸人であることには見切りをつけていたのである。上岡の才能を高く買い、弟のようにかわいがってきたという落語家の立川談志氏も、著書の中でこう書いていた。

上岡龍太郎は芸能、つまり芸人の世界に憧れ、惚れまくっているくせに、己れはそれに入っていけないのだ。

(立川談志著『談志百選』講談社)

上岡龍太郎は最後までテレビ芸を極めることはできず、芸の道を極めることもできなかった。自分の才能の限界を誰よりも冷静に見極めていた。だからこそ、あれほどあっさりと引退を選ぶことができたのである。

上岡が引退した2000年には「IT革命」という言葉が新語・流行語大賞の年間大賞を受賞している。21世紀を前にして、インターネットがいよいよ力を持ち始める時期だった。

今、インターネットは人々を連帯させるのではなく、世界を分断させる方向に働いている。ネット上では人々が自分の好きなものだけを見て、自分の主義主張に合う情報だけに触れることができる。

かつてのテレビの世界にあったような、さまざまな価値観が入り乱れる「ごった煮」の面白さを楽しむ余裕はもうない。テレビの中で異物として機能していた上岡のような芸人はもう出てこないかもしれない。誰も頑固オヤジの説教など聞きたくはないのだ。

稀代の「憎まれっ子」は、時代の空気を読み、己の資質を見極めて、憎らしいほど完璧に芸能界から退いていった。そして、最期まで人前にその姿を見せることはなかったのである。

上岡龍太郎さんのご冥福をお祈りします。

作家・お笑い評論家

テレビ番組制作会社勤務を経て作家・お笑い評論家に。テレビ・お笑いに関する取材、執筆、イベント主催など、多岐にわたる活動を行っている。主な著書に『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで』(光文社新書)、『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー携書)、『とんねるずと『めちゃイケ』の終わり<ポスト平成>のテレビバラエティ論』(イースト新書)、『逆襲する山里亮太』(双葉社)、『なぜ、とんねるずとダウンタウンは仲が悪いと言われるのか?』(コア新書)、『この芸人を見よ! 1・2』(サイゾー)、『M-1戦国史』(メディアファクトリー新書)がある。マンガ『イロモンガール』(白泉社)では原作を担当した。

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