明智光秀は教養豊かな人物だったが、実は残酷な性格だったという不都合な真実
過日、ガレリアかめおか(京都府亀岡市)で、大山崎町歴史資料館の福島克彦館長が明智光秀による丹波攻めについて講演を行った。こちら。光秀といえば、連歌や和歌に通じた教養人として知られるが、実は残酷な人物だったという記録もあるので、その辺りを検討することにしよう。
光秀といえば、天正10年5月に詠んだ連歌の発句「ときは今 あめが下なる 時雨かな」で知られている(『愛宕百韻』)。かつて、この発句は土岐氏の再興を願った光秀が、信長を討って天下取りを宣言したものと解釈されてきた。
しかし、今は光秀が土岐明智氏の流れを汲むとは必ずしも言えず、もともとの「あめが下しる」は「あめが下なる」が正しいといわれているので、先述した解釈は成り立たないとされている。とはいえ、光秀が連歌に熱心に取り組んだ様子は、当時の史料から窺い知ることができる。
また、光秀は茶も好んでおり、豊かな教養人のように思われていた。今、残っている光秀の画像(本徳寺所蔵)を見ても柔和な印象があり、猛々しい趣はない。
その一方で、フロイスの『日本史』には、光秀について「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」、「裏切りや密会を好む」、「刑を科するに残酷」などと書かれている。ずいぶんと酷い評価であるが、証拠がないわけではない。
天正7年(1579)以降、光秀は波多野秀治が籠る丹波八上城(兵庫県丹波篠山市)への攻勢を強めるが、和田氏に宛てた書状により、その残酷なまでの性格を知ることができる(「下条文書」)。以下、その概要を記すことにしよう。
落城寸前の八上城からは降参の意が示され、光秀に助命を願っていた。すでに城内では、籠城した将兵のうち、400~500人が餓死したという。
城から逃げ出した将兵の顔は青く腫れあがっており、もはや人間の顔をしていなかった。それでも光秀は、波多野勢を一人も討ち漏らさないと強い覚悟で戦いに臨み、城の周囲に柵や塀などを築いた。これにより、八上城内の将兵が逃げられないようにしたのだ。
また、光秀が小畠氏に送った書状には、「敵の生存者はことごとく首を刎ねよ。討ち取った首の数によって、褒美を与える」とまで記している(「小畠文書」)。先に取り上げた『日本史』の記事は、まんざら嘘でないことがわかるだろう。光秀の皆殺し作戦は、徹底していたのである。
とはいえ、光秀が特別に残酷かといえば、決してそうではないだろう。波多野氏が早々に降参すれば、ここまでの惨劇にはならなかったかもしれない。今後の見せしめという意味合いもあって、光秀は配下の将兵に徹底した殲滅を呼び掛けたと考えられる。
主要参考文献
谷口研語『明智光秀』(洋泉社歴史新書y、2014年)。
柴裕之『シリーズ・織豊大名の研究 第八巻 明智光秀』(戎光祥出版、2019年)。