ナイスネイチャ永眠 ブロンズコレクターが世界1位に/JRAワイド馬券や競走引退馬のPRに多大な貢献
青空とそよ風の中で安らかに旅立った心に残る名馬
馬は食べれなくなったら”覚悟”しなければならない。かつ、食道と胃の連結部分にある噴門括約筋が発達していて飲み込む力が強いため、嘔吐ができない。つまり、食べたものは消化しなければならないのだ。
ナイスネイチャが今年5月に入ってから極端に食べる量が減ってしまったことは、オンタイムで繋養先である渡辺牧場のSNSで把握していた。
ナイスネイチャは今年で35歳になった。馬は若い頃は1年につき人間では4歳分の年をとると言われている。年齢を重ねるほどその数字は減っていくので、ナイスネイチャが人間でいう何歳に相当するかは、35に4を掛けるより少ない数字にはなるが、それでも100歳は超えているような状態だ。
そんな高齢のナイスネイチャが「食べれなくなった」という知らせは辛いものだった。若馬なら、そこから回復して持ち直すこともあるだろうが、年齢的にも"覚悟"を強いられた。
SNSではナイスネイチャが一進一退を繰り返す様子が報告されていた。渡辺牧場さんは少しでもナイスネイチャが体力を回復できるように努めていたが、その報告は遥か遠くの地から様々なかたちで気に掛けるファンにとってはとても有難いものだった。
しかし、30日。その時がきた。ナイスネイチャがこの世に生を受けた地で、横たわったまま起き上がれなくなった。そして、午後0時40分。鎮静され、かつ麻酔で眠らせた安らかな状態で静かにこの世を去った。
青空が広がり、そよ風が吹く、穏やかな昼下がりだったそうだ。
募金は1億超!JRAの「ワイド馬券」、競走引退馬の広告塔として大活躍
ナイスネイチャは競走馬時代は3着の多いもどかしい成績が話題になったが、競走を引退してからは面白いことにそれが武器になった。
1999年、JRAとNARは新しい馬券として3着までに入る2頭の組み合わせを馬番号で的中させる馬券の発売を始めた。この正式名称は「拡大馬番号二連勝複式勝馬投票法」なのだが、その通称を「ワイド」としキャンペーンキャラクターにナイスネイチャを起用した。毛筆で「ワイド」と書かれた紙を咥えたナイスネイチャのアップ写真を広告に使用して認知を高めた。
また、2001年に種牡馬登録を抹消されて養老馬となり、生まれ故郷の渡辺牧場に帰った。のちのNPO引退馬協会となる馬の里親組織によってナイスネイチャの里親が集められ、余生を過ごした。
2017年からNPO引退馬協会は毎年4月16日、ナイスネイチャの誕生日に行われたバースデードネーションが行われた。この取り組みはNPO引退馬協会が毎年テーマを持って競走を引退した馬の支援を行う取り組みだ。
ナイスネイチャは引退馬協会の"広報部長"となり、募金活動をPR。スタートした2017年は目標額50万円に対して、集まった募金額は198,500円、支援者は48名だった。翌2018年は677,500円で支援者は279名。2019年は1,087,088円で325名。2020年は1,763,900円で404名だった。
大きく流れが変わったのは2021年。ゲーム「ウマ娘 プリティーダービー」がスマートフォンのゲームとしてリリースされ、そのゲーム内でナイスネイチャがモチーフ馬としてキャラクター化されていた。その影響もあり、この取り組みの認知が格段に上がり、募金額がこれまでとは比較にならないほど伸びたのだ。2021年は目標額300万円に対して35,829,730円が集まり、16296名が支援した。2022年は54,127,293円が集まり17155名が支援。2023年は74,022,066円が集まり、支援者も21622名に伸びた。
募金額は1億を優に超え、多くの競走引退馬たちの支援に貢献した。
ブロンズコレクターが世界トレンド1位に
2023年5月30日、twitterのトレンドを知ることができるサイト「Twitterend」のログから、「ナイスネイチャ」が30日午後のtwitterトレンド(ついっトレンド)の上位にランクインしていることがわかった。
このサイトはtwitterとデータ連携して機械的にトレンド情報を入手しており、日本や世界の各地域でのトレンドを時系列に把握できる。「ナイスネイチャ」というワードが日本のトレンドで1位になったのは30日16時。ここから20時までずっと日本のトレンド1位をキープしていた。さらに世界トレンドを見ると、同じ時間帯に1位だったことがわかる。
twitterというSNSは日本での利用者が多く、日本トレンドで1位になると世界でも1位になることが多いのだが、それでもメジャーなSNSで世界でいちばん話題になるほど「ナイスネイチャ」が話題にのぼった、というのはブロンズコレクター時代を知る世代には驚きだろうし、ナイスネイチャがこれほどの影響力を持つまでになったことを嬉しく思った。
それほど、ナイスネイチャが愛されている、という証なのだから。
ブロンズコレクターを決定づけた有馬記念3年連続3着
■1991年 有馬記念(GⅠ) 優勝馬 ダイユウサク (ナイスネイチャ 3着)
1991年の有馬記念、芝コースは冬になると黄色く枯れ、冬至の夕陽がまぶしく馬たちを照らした。ツインターボが逃げてレースを引っ張り、人気のメジロマックイーンが正攻法で攻める。マックイーンをぴったりマークするメジロライアン。その後ろにナイスネイチャがいた。
最後の直線、外に持ち出したメジロライアンのさらに外からナイスネイチャが追い込んだ。伸びる、のだが、届きそうで届かず3着を確保。だが、まだ4歳(現表記では3歳)だったから「いずれGⅠを勝つだろう」と思わせた。のだが…。
■1992年 有馬記念(GⅠ) 優勝馬 メジロパーマー (ナイスネイチャ 3着)
翌1992年も3着だった。メジロパーマーが果敢な大きく逃げてダイタクヘリオスがついていく展開だったが、パーマーはあれよあれよの粘り勝ち。インから抜け出したレガシーワールドにはハナ差で前を譲るが後ろからくる、その年の秋の天皇賞馬・レッツゴーターキンには先着を許さず、クビ差で3着を確保した。芝コースは冬場も緑色になるように変わったが、ナイスネイチャは定位置は譲らなかった。
続く1993年、これまでナイスネイチャの有馬記念での単勝人気は2番人気、4番人気だったが、この年は10番人気まで落ちた。複勝も7番人気。この秋のGⅠは天皇賞(秋)15着、ジャパンカップ7着と奮わず、2年前に「いずれGIを勝つだろう」と思わせた切れ味は影をひそめ、"ジリ脚"が代名詞になっていた。
が!有馬記念の最後の直線、抜け出したトウカイテイオー、好位から王道の競馬をしたビワハヤヒデらから離れた後方での3着争い。昨年は競り負けたレガシーワールド、さらに内から伸びるマチカネタンホイザと競り合ったのち、4着のマチカネタンホイザにアタマ差、5着のレガシーワールドにアタマ+クビ差で先着した。
有馬記念3年連続3着。この走りから”定位置”、”ブロンズコレクター”という印象が一気に広まった。
「何故、勝てない。」
「グランプリで3年連続3着にくるのだから実力がないわけがない」
と、なんとももどかしい寸評が溢れた。
■1993年 有馬記念(GⅠ) 優勝馬 トウカイテイオー (ナイスネイチャ 3着)
早世した担当厩務員が注いだ情熱
以前、担当厩務員の馬場さんがナイスネイチャに強く情熱を注いでいた話を書いた。ナイスネイチャの現役時代、わたしはまだ駆け出しの競馬記者だったが栗東に取材にいくたびに熱心に話をしてくれた。
馬の状態についても話したが、馬場さんはナイスネイチャのグッズ製作に熱心だった。そもそもグッズ製作自体があくまでも内輪のお祝い用に過ぎなかった時代だったから、まさか「ウマ娘 プリティーダービー」のようにナイスネイチャがモチーフとなって"娘"のキャラクターになるとは想像もつかなかった。
年号も変わり、あれから30年もの歳月が過ぎた今。ナイスネイチャが世界で一番話題になるほど有名になった、と馬場さんが知ったら目をまん丸くして腰を抜かすだろう。
ナイスネイチャが現役を引退した2年後、不慮の事故でこの世を去った馬場さん。この記事のトップ画像でナイスネイチャの隣で手綱を引いているのがその人。もしも、あの世があるならば、馬場さんはナイスネイチャにすぐさま駆け寄って手綱を引いているはずだ。
ナイスネイチャ、たくさんたくさんありがとう。そして、おつかれさまでした。合掌。
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