開国時の筆頭老中を祖先に持つ阿部正直が映画の手法で行った最先端の雲の研究が活きた飛行機事故の原因解明
大老・井伊直弼と日米和親条約の筆頭家老・阿部正弘
日本開国の立役者というと、多くの人は近江(滋賀県)彦根藩の井伊直弼をあげると思います。
安政5年(1858年)4月23日に大老に就任し、孝明天皇の勅許を得られぬまま、6月19日に日米修好通商条約を調印しています。
このことによって尊王攘夷運動が活発となり、「安政の大獄」で尊皇攘夷派の人々を弾圧し、恨みを買って「桜田門外の変」によって暗殺という、幕末の歴史に深く関与しているからです。また、戦国時代末期に徳川家康の家臣として活躍したこともあり、井伊家は、映画やテレビなどで、しばしば登場します(現在のNHK大河ドラマは、彦根藩初代の井伊直政を育てた井伊直虎の物語です)。
しかし、最初に開国という扉を開いたのは、備後(広島県東部)福山藩の阿部正弘です。
安政4年6月17日(1857年8月6日)、老中在任のまま江戸で若くして(享年39)急死していますので、活躍の時期が短かったことなどから以外と知られていません。
ペリー来航後、開国をめぐってさまざまな意見が噴出し、日本国内が大混乱していますが、この事態を穏便にまとめる形で、筆頭家老の安部正弘は、嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、日米和親条約を締結しています。
ここで、約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げています。
阿部正弘は江川英龍や勝海舟、高島秋帆らの人材を登用して海防の強化に努め、講武所(後の日本陸軍の前身)や長崎海軍伝習所(後の日本海軍の前身)、洋学所(後の東京大学の前身)などを創設しています。
そして、安政の改革によって西洋砲術の推進や大船の建造に取り組んでいます。
阿部正弘がもう少し長生きをしたら、確実に日本の歴史は変わっています。
初代の気象研究所長は伯爵
時代は明治をへて大正時代になります。
安部正弘の子孫である伯爵・阿部正直は、東京帝国大学理学部を卒業後、自費で映画を使って富士山を中心とした雲の研究に一生をささげていますが、安部正直の研究は、非常に優れていたにもかかわらず、最先端過ぎたことや戦争に向かっていた時代背景などから、多くの人に知られていません。
阿部正直の研究は、当時、非常に高価であったカメラやフイルムを多用し、2台のカメラで雲を立体的に把握、その時間変化を見ることで、雲がどう移動し、どう変化するかという研究です。
図1は、阿部正直が用いた雲写真経緯儀です。基準となる線をながくとり、両端にそれぞれこの機械を据えて、目的の雲を同時に撮影し、雲の形や高さ、位置を測定していました。
そして、20秒ごとに雲の写真をとり、その輪郭の変化から6分間雲の発達の様子を観測したり(図2)、立体的に捉えた雲の広がりを平面図に投影しています(図2)。
さらに、雲を観測した時刻に風船を上げて、上空の風向・風速を観測しています。目視で風船をおっての観測ですので、数キロメートルくらいまでしか観測できないのですが、中には、7キロメートル以上上空までの観測を行っています。
これらの観測は、御殿場市に私設で作った安部雲気流観測所(図3)を中心として行い、膨大な観測データを積み重ねました(図4)。
図4の右下にある丸印が、安部雲気流観測所の位置で、そこから東北東に伸びる線は、高層観測の風船の軌跡です。東北東に伸びていることは、この時の上空の風は西南西の風です。
また、東京文京区の邸内で風洞実験室を作って富士山の模型を入れ、雲の再現実験を行ったりしていました。
特記すべきは、安部正直の研究は、70年以上前に独力で行っていることです。
寺田寅彦の勧めと子供の頃から親しんだ映画
安部正直が映画の手法を使って雲の研究を続けた理由は、著書「つるし雲(ダイヤモンドグループ刊、1969)」にあります。
阿部正直の死後に刊行された本ですが、その本の中で、大正14年に寺田寅彦博士から「雲撮影して研究したらよい、またそれには立体撮影も必要だ」と言われ、それが自分の望む方向であると痛感し、硬い決心がついたと書いています。
また、「つるし雲」には、最初に映画を見たのは8歳(明治31年)の時で、父に連れられて行った料亭という記述もあります。
つまり、日本で初めて輸入された映画の発表会の頃から映画を見ていることになり、高校時代は、シネマ映写機を自作したり、市販された最初の撮影機である(安部正直による)春翠堂の「キネオカメラ」等を購入しています。
そして、本格的に雲の研究に使っていたのは、スタンド型の「セプト」というフランス製の自動回転の撮影機です(図5)。
子供の頃からのカメラ好きだったのです。
初代の気象研究所長は伯爵
伯爵であった安部正直は、昭和12年に中央気象台(現在の気象庁)の気象観測事務嘱託となっています。これは、戦争の足音が近づいてくる中、研究が続けられる道を選んだための選択かもしれません。
阿部正直のその業績は国内外から高く評価され、「雲の伯爵」と呼ばれるようになります。
戦後の昭和21年には、中央気象台の研究部長として招かれ、昭和22年4月30日に気象研究所ができると、初代の研究所長となっています。
同年5月3日に日本国憲法施行に伴って華族制度が廃止となっていますので、伯爵所長であったのは3日間だけでした。
昭和41年は航空機事故が相次ぐ
昭和41年3月5日12時43分、羽田空港に英国海外航空(BOAC)の世界就航便の「ボーイング707」が着陸しています。ロンドンを起点とした世界一周の途中で、前日は羽田空港が濃霧で閉鎖となったため、ハワイのホノルル空港から福岡空港にダイバードしてからの飛来ですので、予定より1日遅れていました。
その羽田空港の滑走路脇には、前日の濃霧の中を着陸しようとして失敗、炎上したカナダ太平洋航空のダグラスDC-8の残骸が残っていました(乗員・乗客の死者64名、生存者8名)。
そして、世界周航便のボーイング707は、13時58分に羽田空港から香港の啓徳空港へ向けて出発しましたが、富士山上空で乱気流に巻き込まれて空中分解をし、乗員・乗客124名が亡くなっています。
その原因解明には、この年の1月1日になくなった阿部正直が残した膨大な資料が使われました。
富士山にかかる雲の研究とその時の資料は、英国海外航空機事故の原因解明だけでなく、今も重要な資料として生きています。
図の出典:M.Abe(1937)、Distribution and movement of cloud around Mt.Fuji studied through photographs、欧文報告、中央気象台。