江戸時代も大名として続いた、常真こと織田信雄の末裔
3日の大河ドラマ「どうする家康」に織田信長の二男信雄が「常真」として再登場した。
小牧・長久手の戦いで家康とともに豊臣秀吉と戦いながら勝手に和睦。そして小田原合戦後秀吉から三河・遠江・駿河への移封を命じられたが、これを拒否したため領地を没収のうえ下野国烏山に流され、出家して「常真」を名乗っていた。関ヶ原合戦にも参加していない。
歴史の表舞台からは消えていたため、織田一族はすでに滅んでいたと思っている人も多い。しかし、織田一族は江戸時代にも大名として続いていた。
大坂の陣では常真は豊臣方から扶持を得て大坂城にいた。淀殿から見れば、信雄はいとこに当たる。しかし、粛清されそうになった片桐且元を逃し、その後自らも出仕をやめている。
織田信雄のその後と子孫
このあと、信雄は家康から大和国・上野国で5万石を与えられ、大和松山藩5万石を立藩した。信雄のあとは、四男の信良が上野、五男高長(信友)が大和の所領を継いだ。
本領の大和松山藩主となった高長の子孫は、のちにお家騒動があって丹波柏原(かいばら、兵庫県氷上市)2万石に減転となり、以後幕末まで続いた。
一方、上野小幡藩主となった信良の子孫は出羽高畠を経て、江戸時代後期に出羽天童に転じた。このとき将棋の駒の製作を奨励、現在まで天童は将棋の町として知られている。
また、明治維新後の当主信恒は織田小星という名で漫画家となり、「アサヒグラフ」に連載した「正ちゃんの冒険」が大人気となって、当時「正ちゃん帽」が流行した。
もう1つの織田家の子孫
江戸時代の大名としては、織田信長の弟長益(有楽斎)の末裔もいる。
長益は本能寺の変の際には二条城にあり、明智方に包囲されたが脱出に成功、以後豊臣秀吉に仕えた。関ヶ原合戦では東軍に属し、大和山辺で3万石を領した。
寛永8年(1631)3代長則が跡継ぎのないまま死去したため直系は途絶えたが、既に分知されていた四男の長政と五男尚長の子孫はその後も続いた。
四男長政は、大和国と摂津国で1万石を分知されて大和戒重藩を立藩、のち芝村に陣屋を移して芝村藩となった。
五男尚長は、大和国式上・山辺両郡で1万石を分知されて諸侯に列し、寛永年間に柳本に陣屋を置いて柳本藩となった。
両家とも幕末まで続いており、幕末には大名織田家は計4家も存続していた。
この他にも、幕府の儀式や典礼をつかさどる高家をつとめた分家もある。