【京都府長岡京市】大きな道路の周辺もかつては古墳や城があった。歴史ロマンを感じながらお茶などいかが!
長岡天満宮から北へ、長岡京市中央公民館・文化センター前の通りを進んでいくと、交差する今里大通りのあたりから今里地域となっています。2022年7月26日、歴史ロマンにあふれるこの地を散策してみました。
乙訓寺や光明寺といった古刹にも繋がっていく、比較的大きな道路の周辺は、昔ながらの畑や田園が広がる、のどかな風景とカフェやハンバーガー店、自家焙煎コーヒーの本社、お洒落な不動産会社、スポーツクラブなど、近代的建築が混在する街となっています。側道の傍らには閑静な住宅街も広がっています。
今では、案内看板でしか垣間見ることしかできませんが、今里のバス停の周囲には、古墳時代中期初頭に造立されたと推定される前方後円墳で、方形の周濠が巡らされた「今里車塚古墳」があったようです。道路工事に伴う発掘調査では、笠形や盾形の木製品を取り付けたと考えられる「木の埴輪」なども出土しました。
中世には、今里城と呼ばれた城も存在したと言います。城跡に行ってみましたが、遺構は無く、デザインマンションの前に案内看板があるだけでした。
今里城は、銀閣寺を築いたことで知られる室町幕府8代将軍・足利義政に仕えた西岡御被官衆の一人、能勢源左衛門尉頼弘によって、寛正年間(1461年~66年)に築かれた城だと言われています。能勢氏は代々、足利将軍家に仕え、戦国時代には能勢頼広が、織田信長が奉じて上洛した15代将軍・足利義昭に仕えました。
しかし、義昭が信長と対立すると、頼広もまた義昭が御所とした旧二条城に籠城して信長に抵抗することとなります。この戦いで義昭は京から追放され、頼広も戦死。今里城は廃城となったと云われます。1990年(平成2年)にマンション建設に先立っておこなわれた発掘調査では、堀と井戸、木橋が発見されたそうです。足利幕府が滅亡すると、今里能勢氏も没落し、帰農したとされています。
かつてこの地で活躍した人々に思いを馳せながら、お洒落なカフェでお茶などしてみませんか!
今里城跡 長岡京市今里13長法寺道