名古屋おもてなし武将隊が結成10年!天下取りの野望、そして“卒業した武将”の今
名古屋おもてなし武将隊が結成10年目を迎えました。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑を中心に、前田利家、加藤清正、前田慶次といった名古屋ゆかりの武将たち、そして足軽4人の合わせて10人編成で2009年11月に結成。甲冑姿で歴史言葉を話し、名古屋城を拠点に殺陣を取り入れたパフォーマンスを披露する、名古屋観光の盛り上げ役として活躍しています。折からの歴史ブームにも乗って人気を獲得し、全国各地に誕生するご当地武将グループの先駆けにもなりました。写真集やCDを発売したり、海外10か国以上に遠征もするなど活躍の舞台を広げ、今ではすっかり名古屋の観光コンテンツとして定着しています。
名古屋城では毎日数名が城内で来場者を出迎え、週末には演武を披露します。演武には毎回200~300人の観客が集まり、名古屋城の年パスを買ってくり返し足を運ぶリピーターも少なくありません。
「SNSで存在は知ってましたが観るのは初めて。動きにキレがあってカッコよかった!」(東京から来ていた20代女性2人組)「サムライ、カッコいい!名古屋城に来たら偶然観られてラッキーだったよ」(ブラジルから来た30代の夫婦)と初見の人はカッコよさに魅了され、常連は武将たちの人間味に魅かれると口を揃えます。「初期からのファンで、週末はほとんど会いに来ています。いつも私たちのことを気づかってくれる優しさが魅力です」(名古屋市の40代女性)、「3年ほど前のあるイベントで、武将様の1人が通路に落ちていたゴミをすっと拾われたのを偶然目にしたんです。その姿に感激して、以来時間の許す限り演武を観に来ています」(名古屋市の30代女性)、「陣笠隊の踊舞(とうま)さんのファンで、周りに気を配りながら武将様を支える人間性に魅かれます。北海道や熊本のイベントまで足を運びました」(名古屋市の30代女性)。
誰が観ても楽しめるパフォーマンスのクオリティの高さ、くり返し接するといっそう深まるキャラクターの魅力。その両面が人気を確固たるものにしているようです。
徳川家康公インタビュー!「当たり前の存在になり100年後も活躍を!」
名古屋おもてなし武将隊は、もともと名古屋市による失業者対策の緊急雇用事業としてスタートしました。当初の計画で約束されていた活動期間はわずか半年。甲冑に身を包んだ勇壮ないでたちとは裏腹に、非常に不安定な立場だったのです。その後も名古屋市からの独立、メンバーの入れ替わりなど紆余曲折を経てついに10周年。結成当初からの唯一のオリジナルメンバーである徳川家康公に、武将隊のこれまでとこれからについてお聞きしました。
― ふり返ってみてどんな10年でしたでしょうか?
家康 「目まぐるしい10年じゃった。実をいうと、わしらが現世によみがえった当初は、“甲冑姿で名古屋開府四百年を盛り上げる”という役割が与えられてはいたが、具体的に何をいたすのかすら決まってはおらなんだ。各々ができることをつなげていった結果、名古屋城にて舞を披露することとなったのじゃ」
― 人気はいきなり沸騰したのでしょうか?
家康 「新聞などが数多く取り上げてくれたが、民たちが実際に見に行こうという動きにはなかなか結びつかなんだ。最初の1カ月くらいは武将隊10名の方が観客より多い、なんてこともあったものじゃ。それが徐々に増えていったのは、口コミのおかげじゃな。現世では会って直接伝えるだけでなく、電話なるものや電子矢文(メール)なるものがあろう。それらを使って一度観た者が周りの者たちにも伝えてくれて、我らに会いに来てくれる者たちが増えていったのじゃ」
― 海外10か国以上に遠征されていますが、外国での反応は?
家康 「どこの国でも反応はよいのぅ。特に熱狂的に迎えてくれたのはメキシコじゃ。今から約130年前に日本がアジア以外で初めて平等な通商条約を結んだ間柄で、非常に親日なのじゃ。米国は遊興に目が肥えているゆえ、初見では“お主たちがいかほどの者かさぁ見せてくれ”と態度に余裕がある。一方で歴史や政治に関しては深く理解した上で質問を投げかけてくるなど、知恵者が多いという印象じゃ」
― 武将隊のこれからの展望は?
家康 「望むのは、皆にとって当たり前の存在になること。当たり前とはすなわち必要とされているということじゃ。イベントというのは一度や二度では単発の催しにすぎぬが100年やり続ければ祭りとなる。わしらの演武はまだ通年のイベントというとらえられ方であろうから、これを“名古屋の祭り”にしていきたい。すなわち武将隊も100年続くものにしていくことがこれからの野望じゃ。そう考えると、まだまだわずか10年、ようやく礎を築き始めたところであろうの」
あの武将は今? 現代社会で奮闘する卒・武将たち
名古屋おもてなし武将隊の10年の歴史の中で、家康公以外は交替がくり返されてきました。5月2日に3代目加藤清正と新・陣笠隊がお披露目される予定で、これで家康公を除く9人全員が3代目となります。ファンとしては人気者だった武将たちの“その後”も気になるところ。歴代の武将の中でも絶大なる人気を誇った初代・織田信長と初代・豊臣秀吉の2人に、武将時代のエピソードと近況を語ってもらいました。
初代・信長インタビュー!「次は政治家か、4代目・信長か…!?」
― 初代・信長こと憲俊さんは、駆け出しの役者だった時に武将隊の一員となった。参加したきっかけは?
憲俊 「役者を目指して26歳で上京し、舞台を中心に演劇活動をしていた時に、名古屋時代にお世話になったマネージャーさんからオーディションを薦められたんです。役者で食っていくと決めていたので最初は断ったんですが、熱心に薦められたので、その人の顔を立てるつもりで応募しました。父が高校の歴史の先生だったこともあって歴史は好きで、時代劇、特に大河ドラマに出るのが夢だった。ちょうど舞台の役でちょんまげを結っていたので、着物に脇差を差してオーディションを受けました。他の応募者はスーツ姿で履歴書持参だったので完全に浮いてました(笑)。エッジが効いていて印象に残ったから受かったんでしょう」
― 武将隊の活動で手ごたえを感じるようになったのはいつ頃から?
憲俊 「結成して間もない頃に芝居仲間の親友が観に来てくれたんですけど、『500円以下(の価値)だな』と酷評されたんです。その言葉にショックを受けて、メンバーに『命を削る思いでやるからついてきてくれ!』と訴えたところ、みんなも涙を流しながら賛同してくれた。あれで気持ちの温度がグッと上がりました。そこから僕が台本を書くようになって、殺陣にもいっそう力を入れるようになった。パフォーマンスのクオリティが高まるにつれてお客さんの反応もよくなって、数か月後には毎週200~300人が観に来てくれるようになっていました。今、思い返すと、ようハネました(よくぞブレイクした)ね」
― そこからは地元のテレビなどにも引っ張りだこに。しかし、人気絶頂の2012年春に信長公以下5人が“卒業”することになりました。
憲俊 「毎週、大勢の前で演技する場があることはすごくいい経験になったんですけど、役者として次のステップを目指した方がいいだろうと考えたんです。武将隊に所属している時に自分の演劇ユニット『SCAMP』を立ち上げて、卒業後はテレビのリポーターなどのタレント活動も多かった。でも、3年でテレビの仕事はほぼなくなりました。ここ3~4年は舞台を中心に活動しています」
― この春には何と名古屋市議選に立候補しました。
憲俊 「2年ほど前に減税日本の議員さんと飲み屋で知り合って、その人から“政治をやってみませんか?”と誘われたんです。最初は7:3で断る気持ちだったんですけど、先輩や友人から“政治家のキャリアがある役者はいないぞ”“名古屋を盛り上げろ”と背中を押してもらって立候補を決断しました」
― しかし、結果は残念ながら次点で落選。
憲俊 「くやしいですね~。活動中は行く先々で“信長さ~ん!”と声をかけてもらったのに、応援してくれた人に本当に申し訳なくて…。でも、負けっぱなしは嫌なので、この経験を脚本化・映画化するとか、再び政治の世界に挑戦する、あるいは4代目として再び信長になるとか…。とにかく転んでもただではおきたくない。これからのことを山ごもりしてゆっくり考えたいのに次の舞台の稽古もあって休めそうもなくて、本当、今、人生に悩んでます」
― まさかの信長返り咲きも!? 武将隊には今も思い入れがあるんですね。
憲俊 「武将隊を盛り上げる!が選挙公約でしたから。存在自体が面白いし、さらに売れるポテンシャルはある。僕が演出したら今以上にもっとハネますよ!」
初代・秀吉インタビュー!「体重43kgの僕には15kgの甲冑は重かった!」
― 初代・秀吉こと宮田大樹さんは学生時代から演劇活動をされていたんですね。
宮田 「武将隊のオーディションは知人に薦められて受けたんですが、僕はアマチュアにすぎなくて、憲俊さんのような役者のキャリアのある人、カッコいいモデルの卵とかがたくさんいる中で受かるワケないなと思ってたんです。だからせめて宣伝でもしようと面接官に劇団の公演のチラシを配っていました。通ったのはそんな度胸が買われたのかもしれません。秀吉の役をもらったのはデビューの2週間前だったんですが、足軽くらいだろうと思っていたのでびっくりしました」
― 武将隊の役割は最初から決まっていたんですか?
宮田 「サムライの格好で名古屋を観光都市としてPRするという以外ほとんど決まっていませんでした。名古屋城でお客さんにあいさつするとか、ゴミ拾いをするとか、たまに寸劇でもやろうか・・・といった程度。たまたま憲俊さんをはじめ芝居をやりたいという人が何人もいたので、劇や殺陣のウエイトが高くなったんです。まさか人気者になるだなんて思ってもいませんでした」
― 初代・秀吉は信長と対照的なコミカルなキャラクターでお互いを引き立て合って、武将隊の人気をけん引する存在になりました。
宮田 「僕は岐阜出身なので墨俣城のイメージくらいしかなくて、世代的には大河ドラマの竹中直人さんのひょうきんだけど豪快な秀吉像の印象が強かった。数百年の時をへてよみがえった存在なので、当初はおじいちゃんキャラでやってみたりしたんです。でも、秀吉に関する文献や小説をたくさん読んで、自分なりに秀吉っぽい要素を取捨選択していきました。そのうちにこちらがキャラを固めるんじゃなくて、どう返すかで性格って判断されていくんだなと思うようになった。だから、“秀吉だったらどう応える?”と常に考えながらその場で臨機応変にリアクションするようになりました。この経験でキャラづくりに対する考え方が180度変わりました」
― 武将隊の人気は熱心なファンによるところも大きいですよね。
宮田 「大人のごっこ遊びというか、テーマパークのマスコットと同じで、戦国時代からよみがえった武将たち、という世界観をお互いに楽しむ関係ができていますよね」
― せっかく人気を博しながら、2年半で卒業した理由は?
宮田 「体力的に限界だったんです。僕、当時は体重が43kgしかなくて、甲冑が15kgもある。体重の1/3の重さのものを毎日身に着けて動き回るので、1年もたった頃には体中が痛くて偏頭痛にも悩まされて、もう辞めようと思ってました。でも2011年4月に武将隊としてCDをリリースした時に、僕は実力不足でレコーディングから外されちゃって。それが悔しくて、まだやり切れていないからもう1年ガンバろうと思い直しました。その後、東日本大震災の復興支援のチャリティソングを全国の武将隊が集まった武将隊JAPANで作ることになり、これに直談判して参加させてもらい、ソロパートももらえたので、ひとつ区切りがつきました」
― 卒業後の生活、活動は?
宮田 「劇団中心の生活に戻ったんですが、ありがたいことに武将隊時代にできたご縁で各方面から声をかけてもらえて、イベントの司会とか、愛知県の観光物産展のPRサポーターなどタレントとしてのお仕事がある程度入ってくるようになりました。学生時代からバンドもやっているので、CDデビューもしました。趣味の寺社仏閣巡りを生かして御朱印印めぐりツアーを開催したり。それでも中心はやっぱり舞台で、今年は脚本・演出・プロデュースまで手がける自主公演を計画しています」
― 今の名古屋おもてなし武将隊に向けてひと言。
宮田 「卒業してもう6年もたつので、すっかり一般の人と同じ目線で見ている感じですけど、僕らは名古屋を世界一の観光都市にしたいという一心で活動してきた。少しずつ結果はついてきていると思うので、引き続き頑張ってほしいです」
俳優、芸能事務所経営など、“元・武将”たちの近況
卒業したメンバーは、芸能活動を続けている人もいれば、一般の生活に戻っている人も。今回確認できたその他の卒・武将の現況は以下の通りです。
【芸能活動を続けている元・武将】
〇初代・加藤清正/丹羽智則→俳優、タレント(カブキカフェナゴヤ座出演)
〇陣笠隊・市蔵/市川智也→ 同
〇初代・前田利家/権藤貴志→九州にて俳優活動
〇2代目・織田信長/佐野俊輔→俳優、MC、kids heartプロモーション代表取締役(学習塾・芸能事務所・ダンススクール)
〇2代目・豊臣秀吉/菅沼翔也→俳優、シンガーソングライター、ラジオパーソナリティ、kids heartプロモーション所属
〇陣笠隊・元気!/伊藤玄紀→俳優、イベントMC、スポーツDJ 、kids heartプロモーション所属
〇2代目・前田慶次/永松大樹→モデル、タレント、書道家
〇陣笠隊・亀吉/亀井英樹→俳優
〇陣笠隊・一之助/黒川一将→俳優
武将隊から巣立った後も芸能活動を続けているメンバーは、名古屋を拠点としている人が多いようです。武将隊は、名古屋における芸能活動の登竜門としても機能しているのです。メンバーが入れ替わっても名古屋おもてなし武将隊を応援し続けることができる一方、現代へ舞い戻った元・武将を応援するのもファンの楽しみ方のひとつといえるでしょう。家康公がいうとおり、末永く活動を続けて、歴史都市・名古屋の、そして芸どころ・名古屋を支える存在であり続けることを期待します。
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(写真撮影/筆者 ※憲俊さんの選挙活動、宮田大樹さんのイベント風景は本人提供、佐野俊輔さん・伊藤玄紀さん・菅沼翔也さんの写真はkids heartプロモーション提供)