【仏紙襲撃テロ】一面的な報道では分からない「私はシャルリー」、イスラム教徒達の葛藤
今月7日にフランスの首都パリで起きた、同国の週刊新聞『シャルリー・エブド』がカラシニコフ銃などで武装した過激派に襲われ、12人が殺害された事件について、日本のメディアも連日大きく扱っている。だが、それらの多くが非常に型にはまった、一面的な論評であるというのが、筆者個人としての感想だ。要するに「言論の自由は大事だが、シャルリー紙はやり過ぎ」「傲慢な欧州」「怒れるイスラム教徒」「テロの危険増」…。こうした単純で一面的な報道の仕方は、一見、「文明の衝突」を批判しているようで、実は対立に便乗し、煽っているとも言える。筆者は中東にもフランスにも友人達がいるが、それぞれの状況や文化から、今回の事件が投げかけるものについて考察していきたい。
○「私はシャルリー」の意味
フランスでは、11日にシャルリー・エブド紙襲撃テロに抗議するデモが全土で行われ、約370万人が参加したと報じられている。このデモを含め、事件直後から、Twitterなどから呼びかけられていたスローガンが “Je suis charlie(私はシャルリー)”だ。これに関するネット上の意見を読むと「差別的なシャルリー紙の表現に賛同するなんて」という批判も多くある。シャルリー紙の表現については後述するが、日本のメディアは「私はシャルリー」の意味を解説すべきだろう。このスローガンは単純にシャルリー紙の表現に賛同しているというわけではない。仏誌『マリ・クレール』が解説しているように、たとえ、その内容自体に同意しないとしても、表現や報道の自由、それ自体は守られるべきだという意志が込められている(関連情報)。フランスの哲学者ヴォルテールの言葉「私はあなたの意見には反対だ。だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」を体現するものなのである。また、テロを批難し「表現の自由」の大切さを訴えることと、イスラム教徒への迫害することは全く別のことだ。11日に行われた大規模デモにフランスの極右政党「国民戦線」が参加を見合わせたのも、事件に乗じたアラブ・北アフリカ移民への排斥の動きに、社会党が与党である現フランス政権が批判的だから*という事情があるのだ(シャルリー紙自体が「国民戦線」に対し、極めて批判的だったという経緯もある)。
*フィガロ紙の報道より。イザンベールまみさんのご教示に感謝。
○シャルリー紙の表現の是非
シャルリー紙の表現の是非についてはなかなか難しい。確かに、イスラム教の開祖ムハンマドと思しき男性が裸で寝そべっていたり、こちらに臀部を向けていたりする風刺画は、筆者も正直なところ下品だと思うし、イスラム教徒の人々が観れば憤慨するのも当然であろう。イスラム教徒と思しき男性がイスラム教の聖典コーランごと撃ちぬかれているものなどは正に最悪だ。だが、一方でなるほどと思うものもある。例えば、2006年2月発行のシャルリー紙は、両手で顔を覆い「アホどもに愛されるのは辛い」と泣いているムハマンドの風刺画であり、タイトルは「原理主義者にお手上げのムハマンド」。筆者も中東の取材の中で、イスラム教をテロや殺戮の大義名分とする過激派に、イスラム教徒達が憤っているのを、幾度も見聞きした。イラク戦争の取材では、米軍と戦う武装勢力のメンバーですら、現地一般市民も巻き込んだテロを行うアルカイダ系の勢力について「イスラム教は本来、平和的な宗教だ。アルカイダ系の連中はイスラム教徒なんかじゃない。ただの殺人狂だ」と批判していたのが印象深い。昨年10月のシャルリー紙の表紙も刺激的だった。この号の表紙はIS(イスラム国)のメンバーと思われる目出し帽の男がムハンマドと思しき人物の首を斬ろうとしているというもの。ISについては、昨年9月、エジプトにあるイスラム教スンニ派の最高学府であるアズハル学院が「『イスラム国』を名乗るテロ組織の呼称は不正であり、イスラム教への侮辱である」と声明を出しているように、その暴挙の数々はむしろ反イスラム的だ。前述のシャルリー紙の風刺は、事の本質を突いたものだとも言える。
○多くのイスラム教徒もテロに憤っている
今回、シャルリー紙襲撃テロ関連の日本の報道での一番の問題は、ステレオタイプに「イスラム過激派の脅威」を煽るのみで、シャルリー紙へのテロにイスラム教徒達が強く批判していることをほとんど取り上げないことだろう。筆者は、イラクやパレスチナなど中東地域の友人が多くいるが、彼らは、今回のテロに憤り、哀悼の意を示している。筆者の友人たちだけではない。多くのイスラム法学者達が、「今回のテロは、イスラム教を裏切るもの」「人を一人を殺すことは、人類全てを殺すことの同義というのがイスラムの教えだ」とシャルリー紙襲撃テロを厳しく批判した。前述したイスラム教スンニ派最高学府のアズハル学院も、事件に対する批難声明を出している。そう、イスラム教徒の人々も我々と同じ、暴力を嫌う平和的な人々がほとんどなのだ。当然ながら、彼らはイスラム教を愚弄されることは嫌うが、それでもなお暴力を否定していることを報じず、ただただ「イスラム教徒は怖い」という印象を広げる日本のメディアも、差別と対立を煽ってはいないか。
○イスラム教徒の人々が抱えるダブルスタンダードへの憤り
一方、筆者の友人たちのような、穏健でリベラルな中近東の人々の間ですら、欧米のダブルスタンダードや、イスラム差別に対して複雑な思いがある。例えば、昨夏のイスラエルによるガザ侵攻に対する欧米の対応だ。国連人権委員会でのガザ侵攻に対する対イスラエル批難決議に対し、米国は反対。欧州各国も棄権した(ちなみに日本も棄権)。筆者は現地で取材していたが、イスラエル軍は国連管理の学校へ空爆を行い、その場に避難していた一般市民を殺害、病院や救急車も攻撃するなど、極めて悪質な戦争犯罪を行っている。「表現の自由」ということで言えば、昨年のガザ攻撃では16人のジャーナリストが殺されている。2012年11月の空爆では、現地メディアのプレスセンターを爆撃した。これこそが「表現の自由」に対する最悪の振る舞いではないのか。11日のデモには各国の首脳にまじってイスラエルのネタニヤフ首相も参加したが、場違いなこと極まりない。
こうしたイスラエルに甘い欧米のスタンスに、「不公平」「アラブ民族やイスラム教徒への差別」を感じている人々は、中近東ほかイスラム圏では、マジョリティーだと観るべきなのだ。一方でテロによる批難しながら、ガザやイラクなどでの一般市民の大量虐殺を正当化、あるいは黙認している欧米のダブルスタンダードこそ、過激派の主張に一定の説得力を与え、それに引き寄せられてしまう者を生む最大の要因である。筆者は、この12年近くイラク情勢をウォッチし続け、現地取材を7回行っているが、「対テロ」の名の下に米国が始めたイラク戦争、そして占領の失敗、新生イラク政府への対応の失敗こそが、むしろアルカイダ系の過激派やISをはびこらせたことは、大いに強調しておきたい。そして、それはイラク戦争を支持・支援し、安倍政権の下、イスラエルとも軍事分野での関係を強化しつつある日本にとっても他人事ではないのである。
○フランスがやるべきこと、やるべきでないこと
今回の事件の背景として、フランス特有の問題もある。フランスでは旧植民地アルジェリアからの移民など、アラブ・アフリカ系の人々への根深い差別がある。サルコジ前大統領は、内相時代、アラブ・アフリカ系移民を「社会のクズ」「一掃する」と暴言を吐き、現地治安当局は彼らを極めて乱暴に扱っている。「二級市民」として鬱屈した感情を抱えた若者達が過激な思想にとらわれやすい環境にあると言えるだろう。今回のシャルリー紙襲撃や関連の事件の実行犯も、アルジェリア系、マリ系だった。フランスは、単に「表現の自由」、「テロは許さない」と叫ぶだけではなく、差別や貧困などの問題も直視するべきだろう。また、フランスのジャーナリストである友人は、
「多くのフランスのメディアが今回の事件をフランス版9.11として、米国同時多発テロになぞらえていますが、米国のように『対テロ』の名の下、市民への監視や個人の自由の制限が厳しくなりうるのは、警戒すべきことです」
と話していた。民主主義の伝統あるフランスには、過剰な盗聴や拷問の正当化など、米国と同じ轍を踏んでもらいたくないものである。
○他人事ではない日本の状況
フランスでは、同国がリビアや北アフリカのマリなどで軍事介入していることが、テロを招くのではという論議も起きているようだ。こうした状況も日本にとっても他人事ではない。特に、米国との集団的自衛権を行使し、諸外国で自衛隊が戦闘を行えば、日本人がターゲットになる可能性は極めて高い。日本で、大規模テロが起きることについては、欧米で起きうる可能性に比べれば低いかもしれないが、ゼロとは言えない。在外邦人がターゲットになることは、イラク戦争での実例から考えて充分有り得ることだ。幸い、今もなお、日本はアラブ・イスラム圏では比較的イメージが良い。日本が非軍事の分野でできることはいろいろとある。それこそ、日本や世界の平和のためにやるべきことなのだ。