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【九州三国志】菊池氏から高千穂の地へ 甲斐家の起源と伝承!親英の壮絶な最期と足手荒神伝説

華盛頓Webライター
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鎌倉時代、元寇で名を馳せた菊池武房の三男・武本が一族の争いの末にたどり着いた先は、甲斐の地でした。

しかし、鎌倉幕府への敗訴や甥・菊池時隆との刺し違えにより、その血筋は再び九州へと舞い戻ることとなります。

武本の子孫・重村は、南北朝の動乱期に足利尊氏へと従い、肥後守護となる夢を抱きましたが、その希望は叶わず、最終的に高千穂鞍岡の地で国人として定着しました。

この高千穂の地で培われた甲斐家の流れは、やがて阿蘇氏の重臣としての役割を果たすことになります。

そして、戦国時代にその名を刻んだのが甲斐親英です。

父・宗運から家督を継ぎながらも、父の苛烈な支配に反発した親英は、幾多の困難と裏切りに直面します。

特に、島津氏との戦いでは、御船城や隈庄城を失い、最終的には島津氏に捕らえられるまでの苦難を経験しました。

やがて、肥後国人一揆では大将として立ち上がり、隈本城を攻めるも、運命は彼に微笑まず、健軍神社で自害を遂げました。

親英の死とともに甲斐家の血統は途絶え、彼の生涯はまさに波乱の一言に尽きるものです。

しかし、甲斐親英の物語はそれで終わりません。

嘉島町の地には彼を祀る足手荒神(甲斐神社)があり、その由来には興味深い逸話が伝わっています。

手足に重傷を負いながらも地元の住民に看護された親英は、「死後は手足の病を守る神となろう」と語ったとされ、この誓いが今も地元の信仰を集めています。

甲斐家の栄枯盛衰は、まさに歴史の奔流の中にあっても、その遺構と伝説が今なお語り継がれる所以でしょう。

Webライター

華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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