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戦後、現在、これからのPTAに存在意義はあるか?

大塚玲子ライター
(写真:アフロ)

PTAの存在意義、あるべき理由とは? 戦後まもなく日本でPTAが生まれた頃と、70数年を経た現在で、その意義はどう異なるのか。今後もPTAに意義はあるのか。もし意義があるとすればそれは何か。

以下は『新教育ライブラリ Premier Vol. 5』(ぎょうせい 2021年1月発売)に筆者が執筆した原稿に一部修正を加えたものです。編集部の許可を得て掲載します。

*かつての「存在意義」と現状のPTA

 PTAの存在意義、あるべき理由。いつか書かねばと思いつつ避けてきたお題をいただいてしまった。今PTAを熱心にやっている保護者に遠慮して曖昧にしてきたが、気にせず書いてしまえば現状のPTAにそれほどの存在意義はない。というのが筆者だけでなく多くの関係者が抱くホンネの共通認識ではないか。タテマエは別だ。

 かつては違ったのだろう。戦後まもなく全国にPTAが作られた時代だ。ただし添えておくと、この頃はこの頃で混乱していた。文部省にPTAをつくるよう指示したGHQ(CIE)は民主主義の普及を意図したが、現実につくられたPTAは戦前の「学校後援会」の看板の付け替えだったことはよく知られる通り。看板変更にとどまらない真に民主的な組織を目指し、理想に燃え尽力した人々もいたが、そういった動きも「逆コース」で下火になったと聞く(下火のまま継続している部分もある)。

 PTAがいかに意義ある団体か、という根拠として今も必ず語られるのは、学校給食の実現だ。戦後まもなく、PTAが声をあげたことで打ち切りの危機を免れ大いに役に立ったという(なお、この動きを実際にお膳立てしたのは文部省だった。藤原辰史著『給食の歴史』参照)。またこの頃のPTAは「学校後援会」としても実際役立った。日本中が貧しかった時代、保護者や地域による「寄付」(実際には強制徴収が多いことは当時から問題視されていた)は多くの学校、子どもたちを助けた。そういった過去を見ると、確かにPTAにはそれなりの存在意義があったように感じられる。

 だが、今はどうか。経済全盛期はとうに去ったが、PTAがつくられた時代とは比にならないレベルで日本は豊かになった。給食継続の一件以降、PTAが実現した華々しい実績は聞かないし、今も皆で声を上げるべき一大テーマはそう見当たらない。

 現状、多くのPTAやP連(PTAのネットワーク組織)は、「前年通りの活動」をこなすことを最大任務にしている。目的など気にせず、組織の存続、または「前年通りの活動」の継続のため、会員の入会・活動強制を続けている。そのため保護者、特に母親たちが苦しんでいることもご存知の通りだ。

 ではその「前年通りの活動」の中身はというと、結局「学校後援会」と変わらない面も多い。学校への「寄付」(なんといまだに多くのPTAは加入意思を確認しないまま会費を強制徴収するので「寄付」とは言い難いのだが)を続けるPTAは今も多いし、またほとんどのPTAは学校行事等の「お手伝い」を行っている。もちろんそれらが無意味なわけではないが、「PTAのあるべき理由」がそれだとも思えない。そもそも学校に十分な公的予算がついていれば、保護者による「学校後援」は必須ではない。

 むしろ、保護者がそのように金品や労働力を無償提供し続ける限り(その背景には当然大きなパワーバランスが存在する)、学校に十分な公的予算がつくことはない。保護者にとっても負担であるし(厳しい世帯はより苦しめられる)、他方では学校のほうも保護者の顔色をうかがい続けなければならないプレッシャーがある。こういった現状からすると、今の時代に保護者が「学校後援会」的な活動をすることは、むしろ学校の自立を妨げる面もあり、「存在意義」とは言えないように思う。

 また一方でPTAは、行政からある意味勝手に「社会教育関係団体」と位置づけられていることが多く、行政主催の講演会等への参加動員や、自分たちで講習会等を企画開催することも「前年通りの活動」として義務化している。だがこれも「存在意義」とまでいえるだろうか。

 「社会教育関係団体」は戦後、社会教育を行う組織(多くは既存の地縁団体)に設けられた位置づけだが、いまは当時とまるで社会状況が異なる。社会教育の場はあらゆる場でさまざまな団体が提供しているし、最近はそれがオンラインでも行われるので、ますます参加の機会は広がっている。このようななか、PTAが学習機会を用意することはもちろん尊いが「それがPTAの存在意義だ」というふうには考えづらい。

*「やるべき活動」を言いたくない理由

 ではPTAに存在意義はもう本当にないのか、と問われるとまた筆者は考え込んでしまう。PTAが「現状行っている活動」にそれがないとしても、「今やっていない活動」のなかに、もしかしたらそれがある可能性はないのか。

 たとえば、学校や子どもたちのための予算の要求。現状、日本がそこに投入する予算は先進国のなかで格段に低い。保護者たちは無償労働やPTA会費による寄付を差し出す代わりに、国会や地方議会に公的予算の拡充を要望する必要があるのではないか。

 あるいは、学校と保護者の情報共有、意見交換の場の実現。これまでのPTAのように、一部の保護者(PTA役員)と管理職だけが参加するものではなく、希望する保護者や教職員は誰でも参加できる場を提供できれば、それは意義深い。稀にこれを実現しているPTAに話を聞くと、双方の信頼関係が増し、子どもたちへの還元も大きいという。

 しかし同時に、ややこしいことだが、「PTAがやるべき活動ということを言いたくない」気持ちも筆者にはある。なぜならこの国では「やるべき活動がある」というと「ならば全員必ず参加すべき」とすぐ思い込み、他人に参加を強制する傾向が強いからだ。「存在意義がある」からといって、必ずしも全員がそれに参加する必要はない。参加したくない人は参加しなくてよいし、そこに存在意義があると感じるか否かも人によって異なるので、存在意義を感じない人も当然参加しなくてよい。皆がそのように自分とは異なる他人の判断を尊重できる世の中になれば、PTAの存在意義も語りやすくなるのだが。

 加えて、「PTAに存在意義がなければいけないわけでもない」とも思う。「あってもいいよね」というレベルの活動をするだけでも十分だろう。あるいは潔く「PTAは役割を終えた」として組織を畳む選択もあると思う。先ほど挙げたような新しい存在意義――予算の要求や、学校と保護者の情報共有、意見交換の場の実現――については、別に組織や活動を新設して実現しても、何ら問題はない。

 筆者の考えは現状このようなものだが、今後考えが変わる部分もあるかもしれない。

ライター

主なテーマは「保護者と学校の関係(PTA等)」と「いろんな形の家族」。著書は『さよなら、理不尽PTA!』『ルポ 定形外家族』『PTAをけっこうラクにたのしくする本』『オトナ婚です、わたしたち』ほか。共著は『子どもの人権をまもるために』など。ひとり親。定形外かぞく(家族のダイバーシティ)代表。ohj@ニフティドットコム

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