第3エンド「男子カーリングを巡る考察その2。SC軽井沢、アジア・パシフィック王者に王手なう」
男子カーリング日本代表、SC軽井沢は今まさに、韓国中東部・義城市で開催中のパシフィックアジアカーリング選手権(以下PACC)の決勝に挑んでいる。
昨夜の準決勝で地元韓国代表を退け、同時に来年の世界選手権(4月カナダ・エドモントン)の出場権を獲得した。これにより、2018年の平昌五輪出場が限りなく近づいたことになる。
18年平昌五輪の出場権は、五輪から逆算して直近2回の世界選手権の順位によって振り分けられる「オリンピックポイント」の合計で争われる。上記の18年エドモントン大会と、今年4月にスイスで開催されたバーゼル 大会だ。SC軽井沢はこのバーゼルの地で日本カーリング男子史上最高位の4位という好成績をおさめた。獲得したポイントは9。このあたりはWikipediaの「世界カーリング選手権」が分かりやすいが、同じレギュレーションで競われた、ソチ五輪に必要だった出場ポイントは10だった。
つまり、あくまで目安でしかないが、来年のエドモントン大会で仮に最下位に沈んでしまったとしても1ポイントの上積みがあるので、最低点は獲得できる。もちろん彼らが順当に実力を発揮できれば、中位以上は期待できるので、油断は大敵だが、かなり平昌出場の可能性は高まったと言って差し支えないだろう。
五輪出場が決まれば、男子カーリング競技としては98年長野五輪以来、20年ぶりの快挙だ。
そしてその20年前に、このSC軽井沢の原点があった。長野五輪のカーリング会場はスカップ軽井沢(現在はプールになっている)で、当時、小学生だったスキップの両角友佑(もろずみゆうすけ)はそこでカーリングに出会う。
「長野五輪を観てカーリングを始めようと思った、というよりも、スカップができた(96年)後くらいですかね、軽井沢にチームがいくつかできたんです。そこで両親がプレーしているのを観ていました。でも、たぶん試合だったから僕には全然、やらせてくれなくて。『オレもやってみてえな』と思っていました」
翌99年、両角は軽井沢中学のカーリング部に入部し、本格的に選手としてのキャリアをスタートさせる。この時のコーチが、現在もSC軽井沢クラブを指導する長岡はと美コーチだ。両角と長岡コーチで始動させたAXE(アックス)というチームがSC軽井沢の母体となった。
「小学生の頃、常呂に何度も試合で行ったのですがその道の途中に『めざせ長野五輪』って看板があったんですよ。ああ、カーリングやってればオリンピックに出られるのか、とぼんやり思いました」
そう振り返るのはセカンドの山口剛史だ。両角と同学年で、チームの中では唯一の北海道出身者であり、カーリング歴はもっとも長く、始めたのは小学校3年生。バンクーバー五輪でスキップを務めた目黒萌絵ら同郷の同級生と共にこの奥深い氷上のゲームに魅せられていった。
サード清水徹郎は元サッカー小僧だった。小学2年生からサッカーを始め、憧れの選手は名波浩。中学、高校とサッカー部に所属してボールを追う一方で、「ここ(軽井沢)は雪が降るので冬はサッカーできないんですよ。その間は友達とチーム組んでカーリングやってました。カーリングはカーリングの面白さがあるから楽しかった」と笑う。
両角友佑の実弟である公佑は、小学生の頃は少年野球でプレーし、中高の部活はバレーボールを選んだ。その一方で、兄の影響で中学生時代に友人とチームを組み、清水同様、部活ではなく空いた時間でアイスに乗った。「高校1年の夏合宿ですね。バレーボールとどっちも中途半端になってしまいそうなのがつかずになるのが怖くて、カーリングを選びました」
それぞれ別のチームでプレーを続けていた4人だが、以前、長岡コーチが「黙々と練習できる才能を持った選手が集まった」とチームを評したことがあったように、この4人には「アイスに立たなかったシーズンはない」という共通項がある。常に軸足はカーリングにあり続け、結果が出なくても「やめよう」と思ったことは一度もないという。両角友佑がこのチームを象徴するセリフを放ったことがあった。
「もちろん、負けると悔しいです。でも、同時に『あそこを修正できれば勝てるんじゃないか。優勝できるんじゃないか』という気持ちも湧く。小さい頃からその繰り返しでここまで来た気がします。
SC軽井沢の発足は05年だ。まず、大学3年生だった山口剛史が、長岡コーチの誘いで軽井沢でプレーを始め、06年の日本選手権からは両角友佑の実弟・両角公佑が、07年には清水徹郎がそれぞれ加入した。現在のメンバーが揃った07年から日本選手権3連覇を果たすなど、それから国内トップチームとして男子カーリング界を牽引し続けている。
(つづく)