KNNポール神田の『2004年バグダッド日誌』
KNNポール神田です!
IT系のリポートを普段お届けさせていただいているが、今回は、防衛省ですらなかった文書が発掘されたことを記念として、ブログやYouTubeでなくても、最低限、お役所の文書は、ブロックチェーンで文書を管理すべきではないか?という提言をふくめて、一瞬で検索できたボクの『2004年バグダッド日誌』で朝日新聞のほのぼのしたシーンと共に、あの頃のイラクの状況を共有していただければと思う…。そう、一般の人ですら、文書管理をクラウドですればすぐに発見できるのだ。写真も動画もだ…。それが、14年間もの間、税金を原資にしている人たちは、一体、どうやって文書管理していたのか?有るのか無いのかすら、わかっていない末期的症状の人たちに国が本当に守れるのか?と問いたい。
まずはこちらのビデオから…。2004年1月23日のインド〜バンコク経由のヨルダンのアンマンからだ…。
戦時中とはいえ、人間は常に、苦境の中でも悦びを見出す生き物だ。しかも、年がら年中、戦争の紛争状態の国家にとっては、平時こそ、非日常だ。今回、公開された「バグダッド日誌」は、等身大の戦争を見せてくれていると思う。一番の問題は、それが、14年もの間、なかったものとされていたことだ…。
14年も前の、日報がなぜ見つけられなかったのか? これこそ税金を払っているものは怒り心頭ものだ。
ボクの「バグダッド日誌」のほうがあっという間に見つけられるぞ…と思う。
ヨルダンからバグダッドへ
メールマガジン、日刊デジタルクリエイターズ No.1452 2004/01/26.Mon発行より
http://bn.dgcr.com/archives/20040126000000.html
ボクは、サマワに派兵された瞬間、イラクのバグダッドにいた。日本や世界のメディア約300人に囲まれた、50人の先遣部隊。サマワまでのルートが確保できなかったけど、バグダッドではなにもない。
日本が協力したという証拠づくりのためようにしか思えない。
ヨルダンにて
一体、今日は何曜日かがわからないような生活が続いている。
スケジュールはあってないようなもの。
インドのムンバイで3日並んでも、ヨルダン行きのチケットがとれず、いったん、タイのバンコクまでもどり、カオサン通りの安宿街でチケットを取ると、翌日に簡単に取れてしまい。安宿をキャンセルして、ヨルダンに到着!
ヨルダンにつくやいなや、とても寒くて、半ズボンにサンダル履きをさっそく着替える。いきなりカバンを持ち、あれやこれやと世話をやいてくれるが、チップのおねだり攻撃が始まった。アラブ圏にはいると、これまでの東南アジアの様相と雰囲気がガラリと変わる。
乗り合いバスでアンマン市街地へと向かう。バスの中では、コーラン(お経のようなもの)の歌が鳴り響き、早くもi-podでコーランの歌を阻止する。i-podは旅の強力なツールだ。
やはりいたイラク入りする日本人のプレスと合流して、彼らの予約している安宿へ向かう。途中で両替すると一万円がたったの52ヨルダンディナールに化けてしまう。すごくさみしい感じだ。しかし、物価は安いので、ちょっと安心。手袋と帽子とセーターを買って、8ディナール。
ホムスというチックピースという豆のペーストとナンに似たピタブレッド、そしてシシカバブとコーラで約2ディナール。インドに比べると高いが、食費も安い。モスリム(イスラム圏)であるが、酒を飲める場所は密かにいっぱい存在している。
頭に独特のかぶりものをしながら、水パイプを吸い、かくれてビールを飲んでいる彼らの宗教観はなんなんだろう? 当然、女性は旅行者しかいない。
ヨルダンでは、外を歩く女性は、ほとんど、布で頭を隠している。とても神秘的である。外のレストランでは、ひげもじゃの男同士が大声でいつもたむろっている。女性はその場にはほとんどいない。
このヨルダンでは、女性は家にいて家庭を守るのが最大の仕事らしく、外を歩くときには、肌や顔をできるだけ露出しないそうだ。しかし、市場にはエロチックな女性用の下着がたくさん販売されている。しかるに、外で鬱積していることが、家では相当にいやらしいことをしている国民性なのかもしれない。
街角では、ニセモノDVDが1ディナールで販売される約175円。東南アジアとほぼいっしょだ。「タイムライン」と「キルビル」と「スクールオブロック」をお土産に買ってみた。まともなのは「キルビル」のみで「タイムライン」は映画館で撮影したもので、前の男の頭が時々、動く(笑)。不思議なもので、映画館で見ているような気になる。ノイズもひどい。「スクールオブロック」は2枚組みのCD-ROMに焼かれたもので、コマ落ちもひどくとてもみれたものではなかった。
いざ、イラクのバグダッドヘ!
ヨルダンで一泊すると、夜にプライベートリムジンでバグダッド行きがチャーターできた。80ディナール。3人で割ると1000キロ近くある片道なのにとても安い。バスだと24時間だが、リムジンでいくと15時間くらいだそうだ。
さて、22時になった。出発だ。アラビア語でなんだかドライバーとホテルのエージェントがいいあらそっている。なんだか80ディナールを前金でないといけないそうだ。そんな理不尽な話はない。結局、いろいろと討議をかさね、半額前金、半額はバグダッド到着後ということになった。いつも中東アラブ圏ではこのような交渉ごとにまきこまれるので面倒くさい。
プロレスラーのタイガージェットシンを太らせたドライバーとプレス3人を乗せたリムジンという名の単なるシボレーは、アンマンをスタートしたのは11時ちかくだった。1時間もしないうちに、ジェットシンはパン屋にのりつけ、膨大な数のピタブレッドを購入し、後ろのトランクにつみこむ。これはきっとイラクにはパンがないものと思い、僕もパンを買いこんだ。1ディナールで山ほどピタブレッドは購入できた。
ヨルダンとイラクの国境着!
夜中の2時にはヨルダンの国境に到着した。パスポートを持って、並ぶ。夜中でもかなりたくさんの人が並んでいる。税金を払って出国。いよいよここからはイラクだ。イラクに入国するとここでもパスポートを見せる。官僚的で車からオフィスにいって見せてもどってくるだけだ。
荷物のチェックもなにもない。テロリストは簡単に武器をヨルダンからイラクに持ち込むことができる。途中でアメリカ兵が2人で護衛している。手には自動小銃。さすがにアメリカのアーミーはカッコいい。ふと、小さな頃から、タミヤの模型やGIジョー、コンバットなどで、アメリカの軍服がかっこいいと刷り込まれている自分を理解した。
ジェットシンは、1時間に一度休憩するが、道路を平均150キロ、最高速は210キロほど出している。ドイツのアウトバーンよりもすごい。さすが石油の国でアスファルトは無尽蔵にある。直線の距離が地平線のまだ向こうにまで伸びる。ジェットシンが居眠り運転しないことを祈る。なんどか路肩から外れて、砂漠につっこみそうになるが、ジェットシンは時速200キロでイラクのアウトバーンをぶっ飛ばす。
戦車で封鎖されるパルージャルート
朝の7時頃になると、バグダッドの西のパルージャに入った。アメリカ兵の戦車が道を封鎖。ヨルダンからの車は、道なき道を迂回して新たなバグダッドへの道を作る。このアラブの精神はすごすぎだった。普通、通行止めであればそこでおとなしく待っている日本人のボクにはとても彼らの行動は新鮮であった。
またしばらく行くと、戦車で封鎖。また新しい道を砂漠に作る。まるで「アラビアのロレンス」の気分だ。アメリカ兵に取材しようとすると、ビデオは厳禁で撮るなと忠告される。同盟国なのに冷たい対応。
ようやくバグダッド到着!
10時になるとバグダッドに到着。黒焦げになった家や砲弾で爆破されたビルを探すが、ほとんどどこにもなし。ごく一部攻撃をされた地区をみることができるが、ほとんどが普通の状況に見える。インドから来たせいか、インドのスラムのほうがよほどひどい状況だ。
11時、テレビの報道で有名なパレスティナホテルの前に到着する。残りの半額をジェットシンに払い、フセイン大統領の銅像が引き倒された公園前で、ようやくバグダッドにきたことを確信する。
とりあえず、今日からの安宿さがしだ。3人で手分けして、安宿を探す。「新潮」のライターの上原さんは、一ヶ月以上もこちらで滞在するそうなので真剣だ。タイから来た渡邊さんは電話があるところを、ボクはネットカフェの近所とそれぞれが宿をさがす。
とりあえず、一泊30USドルのホテルをみつけ、そこに荷物を放り込んだ。バグダッドは電気の供給が安定しておらず、ホテルの前では強力な自家発電のジェネレーターがとてつもなく大きな音をたてており、フロントで大声で交渉し部屋に入った。
とりあえず、お湯は5分くらい待つとでたので、シャワーをあびて、真ん中がへたんだベッドでも体を横にして休息をとると、あっという間に夕方である。あわてて赤ジャケットに身をつつみ取材活動開始。
赤ジャケットにテンガロンは街では一番目立っているらしく、誰もがしゃべりかけてくる。アラビア語はわからない…。しかし、取材するにはとても便利だ。
バグダッドの男性モスリムは米国の古典ポルノ「ディープスロート」に大行列
街角のポルノ映画館では1972年公開の「ディープスロート」が、大人気のようだ。イスラム圏でもやはり男は男で、抑制されているだけその反発は大きい。このインターネットカフェ(1時間2USドル)でもブックマークには、みみず文字(アラビアの文字)のブックマークが並んでいる。
バグダッドに到着して数十時間たったが、バグダッドでは、何もない戦後の一日がはじまっていた。人道支援などの意味は、このバグダッドにはないように感じる。インタビューした中では、戦争前の経済制裁のほうが物資は大変だったようだ。現在は、アメリカ兵がいるためにさらに物資が入りやすくなったという。
バグダッドの街には、バリケードにかこまれたパレスティナホテルに世界のメディアが、暇そうに待機しているが、米国兵のいるグリーン地帯や刑務所などのほうにいったほうがエキサイティングなようだ。
もちろん、サモアには日本の自衛隊がきているので、一斉にそちらに300名近い取材陣が動いているという。サモアまで南下するかどうか、ちょっと今は興味がうせてきた。このバグダッドにいても何もエキサイティングなことはないし、サモアの状況もほぼ読めてきた。自衛隊が来ても何も変わらないだろう。日本が協力したという証拠づくりのためようにしか思えない。実際の活動よりも日本が来たことに意味があるのだ。
少なくとも、バグダッドには、物資よりも、エンターテインメント用のDVDプレイヤーをたくさんあげたほうが支援になるんではないだろうか?日本で報道されていることと、現場の日常のギャップほど面白いものはない。インターネットでしか日本の状況はわからないが、日本のテレビでの自衛隊派兵はどのように報道しているのか興味ぶかい…。
…とここまでが、筆者の14年前のバグダッドの日報だ。インターネットがあるので、原本がなくても、メルマガのバックナンバーをたどれば、到達できる。これぞ、クラウドコンピューティングの成果だ。自分の家には情報は不要だ。たとえ火事で家が失われてもクラウドデータは、火事の被害を受けないはずだ。
まずは、文書くらいはきちんと管理する。都合が悪いものも、年月が経過したら国民に公開すること。それが、本来の民主主義であり国民主権の国家の基本であるはずだ。