震災ドラマ論(2017年版) テレビドラマは3.11をどのように描いてきたか?
2011年に東日本大震災が起きて今年で6年目となる。
この時期になると、NHKでは震災に関連した番組が多数放送される。
震災を題材にしたテレビドラマも毎年作られており、今年は3月23日と24日に役所広司と新垣結衣が主演を務める『絆~走れ奇跡の子馬~』(NHK)が前後編で放送予定だ。
また、岩手県が復興庁の被災者支援総合交付金を活用して制作した岩手復興ドラマ(『第1話 日本一ちいさな本屋』、『第2話 冬のホタル』)が、岩手県近郊で先行上映された後、3月下旬に岩手めんこいテレビ、BSフジ、IBC岩手放送で放送される。
この二作はどちらも実話を元にしたドラマとなっているが、一言で震災を題材にしたドラマといっても、様々な作品がある。
本稿では震災ドラマを3つのパターンに分類して考察すると同時に、6年を経たことで、震災の描かれ方が、どのように変化したのかについて考察したい。
震災ドラマの3つの傾向
以下、ネタバレあり
震災を題材にしたドラマは大きく分けると
実話型
寓話型
侵食型
の3パターンに分類できる。
実話型(『ラジオ』『生きたい たすけたい』)
実話型は、震災の時に起きた実話を元に作られたドラマだ。
NHKでこの時期に放送されるドラマの多くはこの形式で、一色伸幸・脚本の『ラジオ』や、藤本有紀・脚本の『生きたい たすけたい』といった作品がある。最初に紹介した今年放送される二作も実話型のドラマで、被災地で撮影しているものが多いこともあってかドキュメンタリー的な要素が大きい。
完全な再現ドラマから実話を元にしたフィクションまで、作品によってグラデエーションがある。
例えば2013年に制作された『ラジオ』は、舞台となる若者が運営するコミュニティラジオ局女川さいがいFMも、刈谷結衣子が演じた主人公の某ちゃんも劇中に登場するBLOGも実在するものだった。
しかしストーリーの部分はオリジナルのものとなっており、一つの物語としても見事な仕上がりとなっている。
多く人々が震災ドラマと言った時に思い出すのは、NHKで毎年放送されている実話型のドラマだろう。
寓話型(『家政婦のミタ』『ごちそうさん』)
寓話型は、実話型とは逆のスタイルで、震災そのものには言及せずに別の題材を用いて「震災とそれに伴う3.11の出来事」を描いた作品だ。
テレビドラマでは、謎の家政婦が家に訪れたことで、事故で母親を失った家族が崩壊のすえに再生をする姿を、3.11の寓話として描いた遊川和彦・脚本のホームドラマ、『家政婦のミタ』(日本テレビ系)がこれにあたる。
映画では、昨年公開された庵野秀明監督の怪獣映画『シン・ゴジラ』、巨大彗星の事故を物語の主軸に置いた新海誠監督のアニメ映画『君の名は。』が、寓話型の作品だと言えよう。
また、『ごちそうさん』(NHK)等の連続テレビ小説(以下、朝ドラ)は、戦前・戦中・戦後を扱った作品が2010年代は増えており、関東大震災を経由して戦時下へと向かっていく世相を現代に重ね合わせたものが多い。
朝ドラではないが、宮崎駿監督の『風立ちぬ』や片渕須直監督の『この世界の片隅に』といった戦時下を描いたアニメ映画も、同じような見られ方をしている側面がある。
寓話型の強みは、ドキュメンタリーでは描けないことをフィクションという形で描けることだ。
ニュースやドキュメンタリーで地震や放射能の問題を掘り下げるのは、どうしても限界があるが、ファンタジーやSFといったスタイルを駆使することで、現実のその先を想像する思考実験が展開できるのだ。
侵食型(『最高の離婚』『あまちゃん』)
実話型、寓話型に較べるとわかりにくい表現かもしれないが、侵食型とは、ドラマの中に震災の話が出てくる作品である。
例えば『渡る世間は鬼ばかり』(TBS)は、1990年から今も断続的に続いている長編ホームドラマだが、「第10シリーズ、第34話」で、劇中に登場する男たちが結成しているオヤジバンドがボランティアで仙台の被災地に向かう場面がある(2011年6月23日放送)。
また、大根仁が監督を務めた『湯けむりスナイパー』(テレビ東京系)の「お正月スペシャル2012」(2012年1月6日放送)では、温泉旅館・椿屋の番頭(でんでん)が被災地で暮らす仲間の仕事を手伝うために、仕事を辞めてしまう。
この二作は震災以前にドラマの大枠が作られた作品であり、だからこそ、震災という非日常が侵食してきたこと登場人物の日常が変質してしまった様子がよく現れていた。
特に説明がない場合、テレビドラマの舞台は、放送中されている現在の物語である。
もしも、2011年3月11日以降の日本が舞台の作品であれば、登場する人物はメディア情報も含めた何らかの形で震災を体験していると言っても過言ではないだろう。
つまり、今まではフィクションの領域にあったはずの大地震や原発事故に伴う放射能の問題が、私たちの日常の中に入り込んでしまっているのだ。その結果、普通のホームドラマや恋愛ドラマを作ろうとしても結果的に震災の話題が入り込んできてしまう。
こういった3.11以降の変化に対し、もっとも敏感に反応した脚本家が坂元裕二だ。
震災の時に帰宅難民となって、夜の東京を歩いたことがきっかけで結婚した夫婦の恋愛を描いた『最高の離婚』(フジテレビ系)はその筆頭だろう。
『Woman』(日本テレビ系)では、主人公のシングルマザーが生活保護の申請を市役所で行った際に震災の話をされてやんわりと断られるシーンを描いている。
描き方に共通しているのは、震災そのものというよりは、震災による間接的な影響を描いたものが多いことで、「東京から見た3.11」という印象が強い。
3.11を間に挟んだ二部構成の恋愛群像劇となっていた『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(フジテレビ系)の主人公は福島出身の若者だったが、これも東京で暮らす地方出身の若者という側面の方が強く出ていた。
おそらく坂元裕二には、直接被災した人々の気持ちは自分にはわからないため、直接描くことはできないという意識があったのだろう。
そんな坂元のスタンスは東京等の被災地以外の場所で震災を体験した人々の気分を代弁していたと言える。
一方、違う視点から劇中に震災の話を盛り込んでいったのが、脚本家の宮藤官九郎である。
震災直後にある取材で「震災を題材にしたドラマや映画を書く構想はありますか?」と聞かれた際に、宮藤はこう答えている。
しかし、それから8か月が経ち、復興支援コンサートやお笑いライブが開催される一方、フィクションの現場にある、作り者という負い目からか、「何となく東北は触りづらい」という空気と、「作り物という負い目」からか、足並みをそろえようと周囲の出方を窺っている現状に東北出身者として、漠然とだが違和感を覚え始めたという。
そう思い、震災について劇中で書いたのが『11人もいる!』(テレビ朝日系)の第5話で描かれた仙台で被災して東京に避難してきた小学生のエピソードだ。
それから二年後の2013年、宮藤は連続テレビ小説『あまちゃん』(NHK)を執筆する。
本作の舞台は岩手県にある北三陸市という架空の町(ロケをおこなったのは久慈市)。震災以前の2000年代後半から物語はスタートして、途中で登場人物が東日本大震災に遭遇する。
宮藤の場合は坂元とは真逆で、東北(宮城県)出身の脚本家という自身の立場と向き合うことで、「3.11以降の現実」を執筆していったように見える。
フィクションは震災を、どこまで描けるのか?
今後、震災ドラマはどのように変っていくのだろうか?
「実話型」の作品は今後も定期的に作られていくだろう。
新事実や当時は語ることがためらわれた事件なども、明らかになってきている。
ただ、実話型の作品は、作り手の意図とは別に、3.11や被災地の出来事を神棚に上げてしまい、悪い意味で特別な問題に棚上げしてしまう側面が大きいのではないかと感じる。NHKの震災ドラマは、どれもしっかりした作りだが、その分だけ敷居が高く、どこか権威化しているように思う。
敗戦の記憶を元に作られた反戦映画が説教臭いものとして敬遠されたように、震災の記憶を持たない若い世代には、届きにくいものとなってしまうのではないかと、懸念している。
逆にフィクションの要素が強い「寓話型」の作品は、今後増えていくだろう。
9.11が起きた時、テロリストを悪役にしたアクション映画はもうハリウッド映画では作れないと言われたが、創作にかける人間の業というものは恐ろしいもので、どんな事件でもフィクションの題材として貪欲に取り込んでいく。
昨年の『シン・ゴジラ』と『君の名は。』は3.11に対するフィクションの側からの回答だ。
おそらく今後もそういう寓話の形を借りて震災を物語化していく試みは続いていくだろう。
最後に、映像表現としてもっとも可能性を感じたのが「侵食型」の震災ドラマだ。
フィクションでありながらドキュメンタリーを見ているかのような手触りは、即興性の高いテレビドラマならではの表現である。だからこそアニメや映画では描けない現実の変化をいちはやく映像に収めることに成功した。
しかし残念ながら、このタイプの表現は年々減っている。
そもそも侵食型のドラマ自体が、震災以前と震災以降で変わってしまった現実感を記述するために生まれた過渡期の表現だったのだろう。テレビドラマ自体が日本人の風俗に寄り添ったものであるため、日常から震災の話題が減っていくとドラマの中から消えていくのは、ある程度仕方のないことなのかもしれない。
記憶の風化と向き合った『その街のこども』
では、今後の震災ドラマは何を描くべきだろうか?
例えば3月8日の「クローズアップ現代」で放送されていたような、被災者がイジメにあっているという話を社会派ドラマとして描くことは可能だろう。
「クロ―ズアップ現代・震災6年 埋もれていた子どもたちの声~“原発避難いじめ”の実態」
あるいは、現在の福島で生きる人々の日常を淡々と描くような作品があれば、見てみたいと思う。
だが、先にも書いたようにそういった実話型のアプローチは、震災や被災地を別枠化して棚上げしてしまい、自分とは違う人たちの物語だと思われてしまう。
だとしたら、今後は「3.11という話題の風化」や「記憶の断絶」自体をテーマとして描く必要があるのではないかだろうか?
その意味で、今、見返す価値がある作品は東日本大震災を扱った作品ではなく、阪神淡路大震災から15年後の2010年に作られた『その街のこども』(NHK)なのかもしれない。
本作は後に『あまちゃん』のチーフ演出を担当する井上剛と『カーネーション』(NHK)の脚本家・渡辺あやが手掛けた単発ドラマだ。
子どもの時に阪神淡路大震災を体験した男と女が15年後の神戸で出会い、夜の街を歩きながら昔の話をするドキュメンタリーテイストの作品となっている。
ここで描かれるのは震災の記憶の風化をめぐる問題であり、同じ被災者でも共有できないことがたくさんあるという断絶の問題である。
震災の記憶を伝えるために作られた作品でありながら、記憶が伝わらない断絶と風化をテーマにした本作は、むしろ時間が経てば経つほど輝きを増している。時間の経過とともに、絆という言葉だけではやり過ごせなくなりつつある今こそ、見直されるべきドラマかもしれない。
3776の「3.11」が訴えかけるもの。
最後にテレビドラマではないが、震災に対するアプローチとしてもっとも秀逸だと思う表現を紹介したい。
3776(みななろ)という富士宮のローカルアイドルが歌う「3.11」という曲だ。
3776は、石田彰がプロデュースする井出ちよののソロ・ユニットだ(MVが発表された2015年6月当時)。
石田彰が手掛けるアイドルはどこか演劇的で、濃密なストーリー性と世界観がある。
「3.11」がラストを飾る3776のアルバム「3776を聴かない理由があるとすれば」は富士山の標高3776メートルに合わせて、3776秒のアルバムとなっており、「3.11」の他にも「避難計画と防災グッズ」といった地震や富士山の噴火をイメージさせる曲が収録されている。
中学生のローカルアイドルが自分の日常を歌い、成長する少女の姿とアイドルの儚さの背後に、いつ大地震が起きて(富士山が噴火して)もおかしくない未来を幻視させる3776の世界観は、ローカルアイドルと震災というテーマを内包していることを考えると『あまちゃん』が描いた3.11以降の現実の、その後をアイドルという枠組みを用いて表現していると言えよう。
震災を題材にした曲の多くが「3.11の痛みから立ち上がろう」という癒しや鎮魂、あるいは再生がテーマとなっている。
対して「3.11」は、過去だけではなく「地震の影響で富士山が噴火するかもしれない」という未来のことも同時に歌っている。
ポップなアイドルソングということもあって、変化球に見えるアプローチだが、一方で、これしかないという必然性を感じるのは、今でも日本では大きな地震が定期的に起きており、活断層の状況を考えると定期的に大地震の起きる国で私たちは生きているからだろう。
3.11が気づかせたのは、そんな足元で私たちが暮らしているという日本人の現実であり、その状況は今も続いているのは、昨年の熊本で起きた大地震からも明らかである。
「3.11」のように東日本大震災を過ぎ去った過去として捉えるのではなく、「未来から見た、いつか失われてしまうかもしれない現在に対する郷愁と、だからこそしっかり生きていこうという決意」として捉え直した時、まだまだ震災ドラマの可能性はあるのではないかと思う。