明治時代の京都観光②~明治創建の神社~
明治時代に入ると天皇中心の国家体制となり、初期には神仏分離令や廃仏毀釈によって仏教が弾圧され、神道の地位が向上した。そんな時代背景の中で、京都では神社の創建が相次いで行われ、現在も多くの参拝者が訪れている。ここでは明治時代創建の主な神社を紹介し、見所を押さえておこう。
まず明治の京都復興の象徴ともいうべき神社が平安神宮だ。平安京遷都1100年を記念して明治28年に創建された。祭神は、平安京遷都を行った桓武天皇と、京都が都であった最後の天皇となった孝明天皇。境内の主な社殿は、平安京の政治の中心であった朝堂院を8分の5の大きさに縮小して再現されている。
また四神相応に基づき、東には青龍楼、西には白虎楼がそびえ、中央には龍尾檀(りゅびだん)で南北が仕切られ、大極殿(外拝殿)の前には左近の桜と右近の橘を見ることができる。
神苑は小川治兵衛作の名庭で、四季折々の花が目を楽しませてくれる。特に春の紅枝垂桜や初夏の花菖蒲は見事だ。
以下古い時代に順にあげると、明治元年に創建されたのが京都霊山護国神社で、明治元(1868)年に明治天皇の命により東山に創建された。新しい日本を切り開くために活動し、惜しくも命を散らした幕末の志士が数多く眠っており、日本初の招魂社であることから、東京の靖国神社より古い歴史を持っている。
祭神としては坂本龍馬をはじめ、中岡慎太郎、頼三樹三郎、梅田雲浜、吉村寅太郎、平野国臣らが祀られており、境内の墓地には坂本龍馬・中岡慎太郎のほか、木戸孝允、幾松など多くの著名人の墓がある。こちらへは「維新の道」を上り、境内墓地は山の中腹にあるので、京都市内を見下ろせる絶景スポットにもなっている。
建勲神社は、明治2年に明治天皇の命により創建された神社で、織田信長を祀っている。明治8年に京都の船岡山に社地を賜り、明治13年、新たに社殿を造営して織田信忠も配祀し、明治43年に山麓から現在の場所へ社殿を移した。境内からは比叡山と東山如意ヶ岳(大文字山)を望むことができ、また船岡山山頂からは、船形や左大文字も見ることができる。
豊国神社(とよくにじんじゃ)は祭神を豊臣秀吉とし、通称「ホウコクさん」と呼ばれ、親しまれている。秀吉を阿弥陀ヶ峰に葬った翌年には社殿が創建されたが江戸時代に断絶、明治13年に明治天皇の命により、秀吉ゆかりの方広寺の跡地に復興した。
国宝の唐門は伏見城にあったものと伝えられ、伏見城の落城後は二条城に移築され、その後、南禅寺の金地院に与えられ、再興時に現在地に移築された。
残り2社は御所近くにある。御所の東にあった旧三条家邸宅跡の東側に明治18年に創建されたのが梨木神社だ。祭神として三条実万(さねつむ)・実美(さねとみ)親子が祀られている。
三条実万は、早くから王政復古の大儀を唱えて明治維新の原動力となり、その息子である実美は父の遺志を継いで朝威回復、攘夷決行の急進派公卿の中心人物として活躍、八月十八日の政変などの困難に堪え、明治維新を支えた。そのため知と行動を兼ね備えた学問の神様として信仰を集めている。
境内には萩の花が参道を中心に植えられており、萩の名所としても知られているほか、境内にある「染井(そめのい)」は「県井(あがたい)」「左女牛井(さめがい)」とともに京都三名水の一つで、現在唯一飲むことができる。
最後は御所西にある護王神社で締めくくろう。平安京の造営大夫として尽力した和気清麻呂とその姉・広虫を祭神とする。かつて神護寺内にあったものが明治19年に現在地に遷された。
清麻呂は、称徳天皇の頃に権勢を誇っていた道鏡に陥れられ、一時九州へ配流されたことがあったが、その際に猪の守護により痛めた足のケガが治り、また危機の時には猪の大群が現れて救われたということから、足腰の健康や病気回復、亥年の守護神としても信仰されており、狛犬ならぬ狛イノシシがあることから「イノシシ神社」とも呼ばれている。