大河ドラマでは完全スルーされた、織田信長の伊勢侵攻の経過とは
大河ドラマ「どうする家康」では、織田信長の強い存在感がある。ところで、今回は大河ドラマでは完全スルーされた、織田信長の伊勢侵攻の経過について考えてみよう。
織田信長が伊勢国に侵攻し、支配下に収めたことはよく知られた事実であるが、その経緯を良質な史料で裏づけることはかなり困難である。以下、軍記物語などの二次史料を交えつつ、信長が伊勢国に侵攻した理由や経過を考えてみよう。
永禄10年(1567)8月、信長に稲葉山城を落とされた齋藤龍興は、伊勢国長島(三重県桑名市)へ逃亡し再起を図った。しかし、信長は、瞬く間に長島をはじめとする北伊勢を席巻した。その苛烈な攻撃ぶりは、連歌師・里村紹巴の『紹巴富士見道中』にも書かれている。
『勢州四家記』という軍記物語によると、信長による北伊勢への攻撃は、永禄10年から翌年にかけて3回あったといわれている。永禄10年の後半、信長は確実に北伊勢を配下に収めていたようだ。正親町天皇は信長の軍功を称え、伊勢国内の禁裏領の回復を依頼した。
永禄11年(1568)、信長は再び伊勢に攻め込むと、弟の信良(信包)を長野氏の養子に据え、三男の三七(のちの信孝)を神戸氏の養子に送り込んだ。こうして信長は養子縁組によって、着々と伊勢支配を進めたのである。
永禄12年(1569)、危機的な状況に陥った北畠氏は、信長に対決姿勢を見せた。北畠氏は佐藤氏や沢氏に出陣を要請し、防衛体制を固めた。同年8月、信長は北畠一族の木造氏を味方に引き入れ、羽柴秀吉に阿坂城(三重県松阪市)の攻撃を命じた。
信長は本隊を率い、北畠具教と具房の籠もる大河内城(三重県松阪市)に攻め込んだ。しかし、大河内城はなかなかの難攻不落で、さすがの信長も苦戦を強いられた。戦いは長期化するかに見えた。
一進一退の攻防が続く中、信長は次男・茶筅(のちの信雄)を具房の猶子とすることで解決を図ろうとした。この案は北畠氏に受け入れられ、具教と具房は大河内城を退城した。こうして信長は伊勢を手に入れ、支配を行ったのである。