山陰を代表する米子城!完成したのは戦国時代後…名城に相応しくない残念な最後とは
山陰地方で最初に建城された城であり、山陰一とも名高い米子城。
そんな米子城ですが、現在は跡形もなく取り壊されています。
取り壊された理由には、切実な事情がありました。
米子城について
米子城は、現在の鳥取県米子市に存在した日本城です。
戦国時代末期の天正19年(1591)頃、毛利一族の吉川広家が築城を開始しました。
しかし、慶長5年(1600)の関ケ原の戦い後、国替えの命を受けた広家は岩国に飛ばされてしまいます。
その後、米子の領主として選ばれた伯耆国18万石の領主・中村一忠が慶長7年(1602)に米子城を完成させました。
城主不在で売られた名城
築城から約10年、廃藩置県や時代の変化に伴って米子城の正式な城主は不在となります。
そのため明治3年(1872)には、米子城が位置する山は有力な士族らに無償で払い下げられました。
その後、米子城は取り壊されています。
さらに一説によると、取り壊された米子城の木材は当時の30円で古物商・山本新助に売られ、風呂の薪として売り出されたともいわれているなど、名城の最後らしからぬ意外な結末を迎えたのです。
絶景が最強
現在の米子城跡では、本丸こそ存在しないものの、美しい石垣や絶景パノラマを楽しむことが可能です。
小高い山の頂上に位置する米子城からは大山(だいせん)をはじめ、日本で5番目に面積が大きいとされる湖・中海や日本海、周辺市街地なども 360度一望できます。
その景観の美しさは、日本に存在する歴代の城のなかでも随一と詠われるほどです。
ちなみに米子城跡周辺には、米子城をモチーフにしたお菓子の壽城もあるので、ぜひあわせて訪れてみてください。