命燃やす覚悟、突然の就任。選抜8強入り流経大柏高校ラグビー部に元日本代表の青年監督【ラグビー雑記帳】
縦長なシルエットのニット帽と顔の上半分を隠すサングラスをつけた相亮太が、整理体操をする教え子たちのもとへ歩み寄る。身長は186センチで、33歳にして分厚い逆三角形の上半身を保っている。
「現役だった頃のほうが全然、楽。自分だけをコントロールすればよかったから」
日本代表選出経験もある元プロ選手はこう笑うが、指導者となったいまも風貌は変わらない。
「キャプテン」
呼びかけられた石口輝主将が「集合」と、他の部員に声をかける。小さな円陣ができる。指揮官、低い声で訓示。
「ターゲットは」
「優勝です!」
「じゃあ、それにふさわしい準備をしなきゃ」
2015年4月1日、埼玉は熊谷ラグビー場。千葉県の流経大柏高校は、春の王者を決める全国高校選抜大会の「予選Fグループ」で山場のゲームを大勝したばかりだった。5年前の同大会で準優勝に輝いた大阪朝鮮高級学校を59―0で下したのだ。それでも抑揚を抑え、部員に帰り支度をさせる。
「ほら。明後日も試合だぞ」
自らではなく選手に「集合」と言わせ、自らではなく選手に目標を口にさせた。いつだって、青年指導者は心の中で反芻する。
「ラグビーは教育の現場の、人間形成のツール」
結局、その「明後日」の徳島・つるぎ高校戦も85-7で制し、予選を3戦全勝で終える。2年前の春以来の全国大会8強入りを決めた。
1月下旬、クラブの一大事が朝日新聞の記事になった。
<全国高校ラグビー大会の常連校で今年度の大会にも出場した、流通経大柏(千葉県柏市)ラグビー部の松井英幸監督(53)が部員の胸を足で押す体罰をしたとして、31日付で監督を辞任することが分かった>
20年連続出場を果たした大阪の近鉄花園ラグビー場での全国高校ラグビー大会を3回戦敗退で終え、最上級生が次のステージへ向かう折である。高校日本代表を率いたこともある名物コーチはそのまま辞職。相は監督代行として関東大会優勝を果たし、選抜大会前に正式な指揮官となってゆく。
「いろいろ言われているけど…」
13年度から流経大柏高校のフォワードコーチだった当の本人、前任者に関しては口が重くなる。
「経験者もいないなかで、たたき上げで鍛える。人格形成をする。そのなかで、自分の痛みもわからない人間は、人の痛みもわからないだろう…。そういう考えだったと、俺は、受け止めているから。松井先生が積み重ねてきたことを継承する。いままでの積み重ねがあって、マイナーチェンジができる」
いわゆる「大人の対応」だろうか。いや。「自分だけをコントロールすればよかった」という現役時代から、こういった話をしそうな人物だった。
1981年生まれ。Jリーグ創成期を間近に控えていた小学校1年の頃、埼玉の浦和ラグビースクールへ通い始めたのは「練習が終わったらアイスが食べられると友達に言われたから」だった。「校庭での遊び」のサッカーで反則となる身体接触が、楕円球のグラウンドでは好プレーだった。少年は夢中になった。
花園に行きたくなった。強豪だった大東文化大第一高校へ進む。ここで、一生の恩師と出会う。
当時のラグビー部の神尾雅和監督は、か細い身体で熱のある指導を貫いていた。連日のランニングなど自己鍛錬を欠かさぬ人だった。
「先生になりたい」
あの頃の10代の男子は、おぼろげながらに思うようになる。
「自分に妥協せず、自分を客観視するという感じは、先生に出会ったのがきっかけ。自分も先生になって、ラグビーの指導者になれたらな、と」
大人になると、日本最高峰のトップリーグに挑む。リコーでは9年間のシーズンの大半を、社業の発生しないプロ選手として過ごした。その傍ら日本大学へ通い、高校の保健体育の教員免許を取った。目標達成だけでは飽き足らず、大学院修士課程も修了した。大東文化大学で青春を謳歌していた頃より、勉強が楽しかった。
スパイクを脱いで時間が経ったいまは、しばし、「トッド」の話を回想する。
2008年度のチームに就任したトッド・ローデンヘッドコーチは、下部リーグに降格した組織に渇を入れていた。1日3部練習は当たり前で、何も言わずに選手をバスに乗せて富士登山に出かけた夜もあった。
このオーストラリア出身の小柄な軍曹に、後の私立高校教諭は感銘を受けた。
「それ以前に会った外国人コーチと違って、スキルだけじゃなくてチームや選手のことを考えていたんです。こんな指導者もいたんだ、と。自分の経験だけでは教えられない、いろんな分野の勉強をしよう、と思えた」
わずか1季でのトップリーグ復帰を果たすローデンヘッドコーチだが、就任3年目の10年度シーズン途中に突如、帰国する。その前から選手起用などに賛否はあった。ただ、いくつかの後ろ向きな話を、相は「まぁ、その辺はプロだから」と受け流している。
そう。ただただ出会った人間の長所のみを見つめる。見つめようとする。相亮太はそういう人だった。不動のレギュラーだった頃のとある練習後だって、ややくたびれた声でこう語っていた。
「試合前、(会場の)通路でメンバー外の皆ががんばれ、がんばれって叫んでくれるのとか、本当、嬉しい。たとえさぁ、心のなかで何を思っているとしてもだよ。その行動が、嬉しい」
松井前監督への肯定は、必然だったのだ。
もっとも、いまの流経大柏高校ラグビー部の真の妙味は、「継承」ではなく「マイナーチェンジ」にあった。
新指揮官は決意を表明する。
「自主的に考えて行動できるように、促す。強制すると、きつい時に手を抜く奴が出てくるから」
例えば、試合のレビューやプレビューのためのミーティング。コーチ時代から自分なりの作法を伝え、考えさせてきた。いまでは選手同士が議題を煮詰め、パワーポイントの資料を作り、プレゼンテーションをするまでになっている。
目指すは「超攻撃的ラグビー」だ。「攻撃的」の定義は、攻めを重視するというより攻めの姿勢を貫くという意味が近い。
完勝した大阪朝鮮高校戦の後半21分ごろ。敵陣中盤、もたつく相手にナンバーエイトの石口主将がタックルをかます。その地点へ、周りの仲間が一気に集まる。球をもぎ取る。以降の攻防で常に先手を取り、1分後、フルバックの牧内豪がチーム50得点目となるトライを奪った。
「指示を待つのではなく、自分たちから前向きにアクションを起こす。そうしたら、こういう点数になる、と」
相はそう言って、「ラグビーは教育の現場の、人間形成のツール」という持論を掲げたのだった。
「攻撃的。そういう激しさのなかにも規律とルールは存在するし、相手に対する礼儀も身に付けないと」
勝負から逃げる言い訳としてではなく、肝に銘じた哲学として相はそう発信したいのだ。この春、担当科目を保健体育から情報科に変える。現在の職場に着任した後、新たな免許を取得していたのである。生き様で、言葉に説得力を与える。
リコーにローデンヘッドコーチが来た08年の夏だったか。チームのメディカルチェックで「要再検査」の通知が重なった。悪性の白血病の疑いがあった。ちょうど大学院でスポーツ医学を学んでいたから、発病した場合の余命が想像できた。家族には「俺、死ぬかもしれない」と相談した。
終わりが近いと思えば、どんな苦しい鍛錬にも真正面から向き合えた。文字通り本気で走り、ぶつかり、暴れた。後悔したくなかった。ロッカーの壁には生きた証として、富士山で撮った同期入部選手らとの写真を貼った。後に何もなかったことがわかるのだが、その体験で人生を豊穣なものにしたのは確かだった。
――自身の現役生活は、いまの仕事にどう繋がっているか。
12年度限りで引退した時の思いも踏まえ、相は答える。
「自分のキャリアを終えなくてはいけないという決断。ここから伝えられることは、ラグビーができることは幸せなことなんだ、ということ。あぁ、きょうも練習だぁ…じゃない。きついけど、それを楽しむ。選手、生徒がそうできるような指導をする」
選抜大会の準々決勝は4日にあり、流経大柏高校は愛知の春日丘高校とぶつかる。命に最後があることを本当の意味で知る指揮官は、自分の意志で幸せな時間を連ねてゆく。