成功が約束されていた大阪万博~阪急平野と千里ニュータウン
・まちびらき60周年の千里ニュータウン
大阪府北部に広がる千里ニュータウンは、1962年に初めての入居が行われてから、2022年にまちびらき60周年となった。
一時は、「オールドタウン」などと揶揄されるほどになったが、20年ほど前から、老朽化した集合住宅が次々と建て直され、再び若い世代が住み、子供たちの声も聞こえるようになった。
千里ニュータウンが復活した理由は、その地理的要因にある。大阪北部の丘陵地区にある千里ニュータウンは、地下鉄御堂筋線に乗り入れる北大阪急行電鉄線、阪急千里線によって、大阪市内と結ばれている、大阪国際空港(伊丹空港)、新幹線新大阪駅にも至便な位置にある。さらに、名神高速道路と中国高速道路、近畿自動車道と自動車での移動でも利便性が高い。
大阪市内への通勤、通学にも、遠距離への出張や旅行にも便利な位置にある。さらに計画的に整備されたニュータウンは、新たな集合住宅が整備されたことによって、新たな住民が増加している。
・「阪急平野」とはなにか
1960年代前半に発行された京阪神急行電鉄株式会社が発行していた社内報「阪急」を見ると、「阪急平野」という言葉が何度も登場する。
1962年1月に発行された「阪急」第83号には、「阪急平野をかこむ三つの新線敷設が免許されました」という記事が掲載されている。
1961年12月に運輸省(当時)から、免許された「三つの新線」とは、①千里山駅~桜井駅間 ②淡路駅~新大阪駅~十三駅間 ③新大阪駅~神崎川駅間の三つだ。この三線によって囲まれた地域というのは、まさにこの記事の最初に挙げた写真に写っている千里丘陵を含めた地域全体だ。
これら三線が完成していれば、「阪急平野」を環状に鉄道路線が走り、京都・神戸間の直通運転が可能になっていた。さらに、1964年に開通した新幹線・新大阪駅に接続する阪急・新大阪駅が開設される計画となっていた。
しかし、阪急は単なる新幹線接続駅として新大阪駅設置計画を行っていたのではない。「梅田駅(現・大阪梅田駅)の混雑緩和のため、現在梅田駅で地下鉄、国電(現・JR)に乗りかえておられる御乗客の相当部分をこの連絡駅へ誘導すること」(「阪急」第83号、p16)とし、梅田駅に変わる新たなターミナルとして考えていたようだ。
このように当時の社内報を見ると、北摂地域全体の開発を担うという考えが色濃く出ている。それはそのまま第二次世界大戦後の復興期を経過し、本格的な経済成長を遂げ、人口が急増している勢いのある日本を象徴している。
・住民15万人のベッドタウン開発計画
「阪急」第83号には、この千里山延長線の「敷設目的が大阪府計画による千里山ベッドタウン(住宅団地)の住民15万人の通勤通学その他の交通を引きうけるため」であると述べている。
この千里山ベッドタウン計画こそが、千里ニュータウンとして発展していく。第二次世界大戦後の復興は、大都市圏の急激な人口増加と、住環境の悪化が深刻化していた。大阪府は1956年頃より大規模な住宅の供給の検討を始めた。
1958 年には、千里山ベッドタウン計画である「千里丘陵住宅地区開発事業」の正式な事業化が決定し、1961年に着工する。そして、1年後には最初の住民が入居した。ここに千里ニュータウンが誕生する。
・1961年には大阪大学の千里移転決定、1963年には名神高速道路開業
1961年には、大阪大学が千里丘陵に移転を決定した。千里ニュータウンのマスタープラン決定後の表明だったために、ニュータウン内に用地の確保が難しく、東側に大学用地が用意された。一部は、大阪万博の用地と重複したことから、万博開催中は駐車場などに利用された後、開催後、大学用地として転用された。
また、1963年には、日本初の高速道路として、栗東インターチェンジから吹田インターチェンジを経由して、尼崎インターチェンジの間が開通した。1965年には愛知県の小牧インターチェンジまでが開通。さらに1968年には、東名高速道路が開通したことで、東京・神戸間が高速道路で結ばれた。
・万博の千里丘陵開催決定は、1964年
大阪万博の会場跡地の一部が、千里ニュータウンとして開発された訳ではない。1964年4月に大阪府、大阪市、大阪商工会議所が政府に対して、「国際博覧会大阪誘致要望書」を提出。そして、10月には千里丘陵開催案を決定した。
1965年4月には、滋賀県、兵庫県の了承も得られ、千里丘陵開催案が閣議決定された。そして、政府は同月中に博覧会事務局(BIE)に開催申請を行い、4か月後の9月、正式に大阪開催が決定した。
開催地の検討においては、大阪南港(大阪市)や神戸港(神戸市)、琵琶湖(滋賀県)の埋め立て地に比較して、千里丘陵は大阪市中心部から近距離であること、名神高速道路が開通していること、そして西側で千里ニュータウンの開発計画が進んでいたことなどが、好立地として評価されたのだ。
しかし、すでに開催予定地は、「阪急平野」として目を付けていた阪急を含め、将来的な開発が期待される場所であり、土地の買収には困難を極めたことが記録されている。つまり、跡地利用の心配どころか、阪急も含め、いくらでも開発、利用が期待された土地だったのだ。
・成功が約束された土地
元々、阪急が一社でも開発できると考えていた「阪急平野」を、大阪府が政府の後押しを受けながら、千里ニュータウンとして開発を始め、そこに大阪大学が移転を決定。そして、大阪万国博覧会が計画された。
つまり、当時、千里丘陵は「成功が約束された土地」だったわけだ。大阪万国博覧会の計画段階で、跡地利用に関する懸念があったどころか、すでに大規模開発が計画されていた場所だった。
阪急の計画した三つの路線は、千里ニュータウンの開発の中で計画が変更されたり、建設が断念されたりするなど、未完となった。しかし、「阪急平野」と呼ばれた千里丘陵から、さらにその北部地域は大規模開発が続いた。(注1)
・先人たちが遺したもの
大阪万国博覧会は、1970年に開催され、成功を収めた。その背景にあったのは、万博以前に開発が進んでいたことがある。跡地利用に関しても、高速道路のインターチェンジや鉄道、約150万人規模のニュータウンに隣接するという好立地から、工業団地や住宅開発などへの転用の要望も強かった。
しかし、パビリオンが撤去された跡地は、大阪大学のキャンパスなどに利用された一部を除き、広大な森となった。また、大阪万博の収益金は、「持続可能な人類社会への貢献」を目的に日本万国博覧会記念基金として運用されてきた。(注2)
大阪万国博覧会は、単に博覧会という事業だけを行ったのではなく、高度経済成長期で、人口が急増していることを背景に、緻密な計画に基づいた大規模な開発の一環として行われたのだ。ここにも大阪万博の成功の理由の一つが隠されている。
こうした事実を学んだ上で、今こそ先人たちが、利用価値の高い土地を、なぜ森にしたのか、なんのために基金を遺したのか、私たちはもう一度、考えるべきではないだろうか。
(注1)阪急は新大阪駅から関西空港への直通運転を行うため、十三駅から新大阪駅を結ぶ新大阪連絡線(仮称)の2031年開業を目指すと、2023年9月に発表した。
(注2)2023年10月に大阪府と大阪市は、関西万博の資金不足の対応として、日本万国博覧会記念基金の残高約190億円を取り崩す検討をしていると報道された。